
黙って喋って
2026年4月7日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
前々回、前回とご紹介した「生きる言葉」の著者である俵万智さんは、本書の中で言葉に対して鋭い感性を持たれている方を何名も挙げられているのですが、その中でも私が特に印象的だったのが、ピン芸人のヒコロヒーさんと言語学者である川原繁人慶応大学教授のお二人でした。
そしてそれぞれのご著書を今回と次回の二回にわたってご紹介したいと思います。
今回は、まずヒコロヒーさんの短編小説集「黙って喋って」です(小説嫌いの私としてはとても貴重な小説へのモチベーションの芽生えでした)。
ヒコロヒーさんは、いままでをTVで見ていて決してファンというわけではないながらも、この動画のように芸や話の切り口が独特だなと「なんとなく」惹かれるものがありました。
その「なんとなく」の魅力を、俵さんの指摘に加え、本書を読むことによってより具体的にとらえることができないかと思い、読み始めました。
この動画からも感じられると思いますが、彼女の魅力を一言で言うと、「人の心という目に見えないものを表す言葉がすべてを言い尽くせないのを前提としながらも言葉を生かして何とか人の心を表現する」ということに尽きると思いました。
「生きる言葉」の中では俵さんはヒコロヒーさんの18の短編のうち第一話「ばかだねえ」を題材にその表現について考察されていたので、この記事では第二話「あと十分だけ」を取り上げてみたいと思います。
この短編小説は、お互いに恋人がいて、でも自分たちは高校の同級だった純然たる友人同士である、ということを一つの特権みたいにして男女の友情などというセリフをはつらつと繰り返し、二人で会うことに罪悪感を持つわけでもなくただ自然と食事に誘い合ったりする関係性を描いたものです。
この中での「茜(私)」の心の内を著者はこう表現しています。
(今少し腕を伸ばして遼平(彼)のコートを引っ張ったら、立ち止まって思わせぶりに黙ってみたら、触ってみたら、帰りたくないと言ってみたら、そんな風に考えては、頭の隅の方から輪郭のはっきりした波が勢いよく押し寄せて来て、砂で描いた私のくだらない想像をきれいさっぱりと消し去っていく。)
ただ、大体そういう思いは、実は互いに共通したものでありがちで、読み手としてもほぼそう予想するものでしょう?((笑)少なくとも私はそうでした)
彼の「あと十分だけ一緒にいようって言ったらどうする?」との唐突な言葉に、
(私の心臓はドン、と大きく揺れ、その振動を受けるようにして喉元につっかえていた言葉はゆっくりと蠢きだし、姿形を少しだけ変えて流れるように口からはらりとでていった。)
「あと、十五分だけ、にもできる、かも」(終)
いや~、何とも言えない心のひだの動きを実に絶妙に描かれていて、こっちまで落ち着かない気持ちにさせられました(すみません、私に俵さんにような文才がなく、絶妙な表現ができないのが残念です(笑))。
本書を読んで久しぶりに(原田マハさんの「本日は、お日柄もよく」にという小説を読んだ時以来)、小説嫌いの私が小説(物語)のメディアとしての存在意義を感じられた気がしました。
その感想を書いた「本日は、お日柄もよく」の記事で、その小説を読むまでは次のような見方をしていたことを告白しました。
「小説(を含め物語)は、『感情』や『勢い』というものの表現も重要であるために、『映画』というより優れたメディアが発明された時点で、小説は、受け手側に感動を与える力という意味においては、最善の形態としての地位を映画に譲ったと考えるからです。」
しかし、「本日は、お日柄もよく」においては、小説というメディアが、「知識を広める」という目的に対して映画よりもメディアとしてだということを実感したことの感動を伝えていました。
今回のヒコロヒーさんの短編小説の多くは、「知識を広める」という実務上のメリットではなく、「人の心という目に見えないものを表す」という文学上(すなわち小説のど真ん中)のメリットを私に実感させてくれたという意味で、格段に価値の高い経験をさせていただいたと思っています。
実際、「本日は、お日柄もよく」の記事では、「小説もどんどん読んでいこうという心変わりまでには至ってはおりませんが、」という条件付き評価にとどまっていましたが、今回はすぐさま他の作家さんの短編小説集(それでもあくまで短編からですが)を購入してしまいましたので、「心変わり」したと言ってもよいかもしれません。
それが本当の「心変わり」になりえたのかどうか、近いうちに報告できればと思っています。









