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文字禍

2026年1月11日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回の「道具にもほどがあるのか」の記事にて、読売新聞夕刊の「よみうり寸評」が中島敦の小説「文字禍」という小説を取り上げて、道具をあくまでも「道具」と心得る私たち人間の心的態度の重要性に触れました。

そこで取り上げられた中島敦の小説「文字禍」を実際に読んでみたいという気持ちになり、小説嫌いの私にとってはこの自然な欲求を大切にしない選択肢はないと考え、すぐに購入しました。

そして届いたものを見てその薄さ(14ページ)に少々驚くとともに安心して読み始めましたが、なんのなんのその内容は深く、非常に示唆に富むものでした。

以下に、興味深い部分をいくつか引用し、それぞれに対する私の考えを述べたいと思います。

「博士は凝視と静観とによって真実を見出そうとした。その中に、おかしなことが起こった、一つの文字を長く見つめている中に、いつしかその文字が解体して、意味のない一つ一つの線の交錯としか見えなくなってくる。博士は生まれて初めてこの不思議な事実を発見して驚いた。今まで70年の間当然と思って看過していたことが決して当然でも必然でもない。彼は目からうろこの落ちた思いがした。単なるバラバラの線に一定の音と一定の意味とを持たせるものは何か、ここまで思い至った時、博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。」

この記述は、かなり前にこのブログで取り上げた「ゲシュタルト崩壊」の現象そのものではないでしょうか。

ちなみに、ゲシュタルト崩壊はウィキペディアによると1947年にC・ファウストによって失認の一症候として報告され、持続的注視に伴って健常者にも生じることが知られるようになった現象ということなので、1942年にこれを書いた中島はそれより5年早くその現象を言語化していたことになり、その洞察力に驚かされます。

「博士はニネヴェの街中を歩きまわって、最近文字を覚えた人々を捕まえては根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変わったようなところはないかと。これによって文字の霊の人間に対する作用を明らかにしようというのである。さて、こうしておかしな統計が出来上がった。それによれば、文字を覚えてから急に虱を取るのが下手になった者、目に埃が余計入るようになった者、今までよく見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど青くなくなったという者などが圧倒的に多い。博士は最後にこう書かねばならなかった。『文字の害たる、人間の頭脳を犯し、精神を麻痺せしむるに至って、すなわち極まる。』」

やはりこれは、道具の下僕になるのではなく、道具を人間の下僕にするには、よほど意識して道具を付き合う必要があるということを強く示唆するもので、再びこれが戦前に書かれたものだということ思い出し、物事の本質を捉える力は、優に時代を超えるのだということを思い知らされた気がします。

「AIはすでに人間が考えた情報ももとにしか答えを出さない」などとはよく言われることですが、このことについてもかなり示唆に富んだ記述がありました。

「文字の精が一度ある事柄を捉えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。この文字の精の力ほど恐ろしいものはない。君やわしらが文字を使って書き物をし取るなどと思ったら大間違い。わしらこそ文字の精にこき使われる下僕じゃ。」

ここで言われていることは、すなわち、「文字に記されていないものは、この世に存在していない。」同じく、「AIのデータベースに載ってこないものは、この世に存在していない。」ということです。

このようなことを前提に、文字時代どころかAI時代を生きていかなければならない私たちは、次のような博士の指摘を常に頭の中にとどめておく必要があると思います。

「武の国アッシリヤは、今や見えざる文字の精のために、全く蝕まれてしまった。しかも、これに気づいているものはほとんどない。今にして文字への盲目的崇拝を改めなければ、後に臍を噛むとも及ばぬであろう。」

 

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