なぜ、英語の専門語彙は難しいのか
2014年7月23日 CATEGORY - 日本人と英語
「なぜ、英語の専門語彙は難しいのか」って、それは専門語彙だから普通の日常語彙よりも難しいに決まっているではないかと突っ込まれそうですが、ここではそういう意味ではありません。
「日本語と比べて」という条件が付きます。
そうならば、逆に言ってしまえば「日本語の専門語彙は簡単だ。」ということになりますが、実際にそのようなのです。
実は、私にもこのトピックに関する衝撃的なエピソードがあります。
以前に、ランゲッジ・ヴィレッジの講師の一人にメガネをかけた者がいました。彼女に対して「いつから近視になったの?」と聞くつもりで、「How long have you been myopia ?」と質問したことがあります。myopia(近視)という語彙はたまたま私が留学時代に必要だった言葉だったので覚えていました。
すると、その講師は「What is myopia ?」と聞いてくるではありませんか?私は、「short-sightedのことだよ。なぜ、知らないの?」と問いただすように言いましたが、その講師は「ふ~ん、そうなんだ。よく知ってるね。」といった感じでした。
それまで私はその講師のことを決して知的レベルの低い人間ではないと思っていました。ですが、「近視」という言葉すら知らないネイティブなんて、大丈夫なのだろうか?とかなりのショックを受けました。
実は、彼女を講師として雇用する経営者として今の今までこの疑念を抱えながら悶々としていたのですが(笑)、実はこのことはそこまでショックを受ける程のことではなさそうだということが、先日の記事 でもご紹介した「日本語と外国語」で明らかにされました。
「日本語と比べて英語では高級語彙(使用頻度の低い専門用語等)は、専門外の話者にとっては非常に難しい。」
このことを示す非常に分かりやすい例を本書より以下に引用します。
「実を言うと英語のこの難しさは、何も外国人である日本人にとってだけではなく、英語の母語話者にとっても厄介なのだ。私はアメリカの教壇に立っていた時、以下のような実験をした。黒板に、下の写真の表3 15の pithecanthrope と書き、その意味を聴衆に尋ねたところ、誰一人答えられなかった。これは日本語の「猿人」にあたる語で、ギリシャ語で猿を表す pithec と 人間を表す anthrop の合成語である。聴衆のほとんどが文化・社会科学系の大学院生や教授という一般知識人たちであったが、日本で同じような状況で黒板に「猿人」と書いて一人も理解できる人がいない状況を想像できるだろうか。この実験をイギリスやカナダでも行ったが結果は同様であった。」
このことは、私たち日本人は、その高級語彙を構成している漢字を日本語の一部として現在でも使用していること、そして英語話者は、その高級語彙を構成しているラテン語やギリシャ語を現在では使用はおろか学習さえしていないことに理由があると著者は言います。
上の写真は、英語と日本語のいわゆる「高級語彙」をいくつも並べたものです。日本語の部分がローマ字表記になっていますので非常に分かりにくいですが、「heishokyohusho(閉所恐怖症)」「sokubyoi(足病医)」「tokyobu(頭胸部)」「soshokusei(草食性)」・・・とかかれています。これらは音声を聞いただけでは分かりにくいものも多いですが、漢字に直すとほとんど意味が分かると思います。
つまり、英語話者にとっての英語の高級語彙は、まさに「sokubyoi」「tokyobu」と聞いて日本人が「なにそれ?」と思うのと同じような感じということになります。
このことを本書によって知った時、私は心の中で先ほどの講師の知性を疑ったことに対し心から詫びました。(笑)
それと同時に、日本人が漢字を使用することで学習の負担が大きすぎて、それが近代化の邪魔にすらなってきたという悪評価をうけることがあるのですが、このエピソードを知ってから「劣等感」を感じるどころか、逆に「優越感」を感じることにもなりました。
また、漢字には、そのほとんどに訓読みと音読みの二種類がありますが、このことは一見デメリットのように思えますが、実はこのことによって我々日本人の言葉の認識と記憶が非常に容易になっているようなのです。
例えば、頭を「あたま」と「トウ」とも読みます。このことは一般的には非常に「めんどくさい」と毛嫌いされ、日本語を習得するときの障害と認識されることが多いと思います。確かに、小学校から場合によっては高校まで漢字の読み書きの勉強を強制されるという大いなる負担は免れません。
しかし、以下に示すような大きなメリットがあることを忘れてはいけません。
漢字の音読み訓読みの仕組みは日本人の言語意識の中で固く結ばれています。「トウ」=「あたま」という具合に一方は直ちに他方を引き出すという緊密な相通関係が確立しています。
つまり、日本人は日常生活の中で漢字を見るたびに、あるときは「音」で読み、あるときは「訓」で読む必要がある結果として、両者の対応関係が常に強化され続けるのです。
もし、頭という漢字を書いて、それをトウと「音」で読んだり、あたまと「訓」で読んだりする習慣がなく、また、あたまという和語を時に応じて漢字で頭と書いたりすることがなければ、この頭という文字表記は英語の pithec と 同じようにそれを特別に学習した専門家以外の人には何を表すかがまったく分からなくなってしまうでしょう。
本来、音読みは中国語の読みから来たものですから、日本人にとっては英語話者にとってのラテン語やギリシャ語のように分けのわからないはずのものです。それが、「訓読み」という子どもでも分かる基礎語の読みとセットになっていることで具体的なイメージを簡単に思い浮かべることができるというわけです。
だからこそ、日本語の「専門語彙」は一般人にもすぐに理解習得できるのです。
日本人と英語のコラムにもかかわらず、日本人と日本語のウンチクとなってしまいました。
それにしても言語って本当に面白いものですね。