日本人と英語

まずは日本語でしょう

2018年3月14日 CATEGORY - 日本人と英語

前回は「史上最悪の英語政策」からテーマをいただいて書きましたが、今回は「コミュニケーションの本質」について取り上げたいと思います。

前回では、4技能のうちのよりレベルの高い「書く」と「話す」の2技能に特化して教育しようとすることのばかばかしさについて指摘をしましたが、今回はもっと本質的な議論となります。

「コミュニケーション」という言葉はそれ自体が英語であるためかは分かりませんが、英語という枠内で考えることではじめて「コミュニケーション」を意識するという日本人が多いことに気づかされます。

そもそもこの「コミュニケーション」という言葉は、「人と人との関わり」という意味であるため、英語という分野で初めて問題にされるようなものではなく、まずは日本語で、しかも子供のころから当たり前のように「意識する」べきものです。

何というか、あまりに当たり前すぎて、日本語を客観視することがなかったと言えるのかもしれません。

教科としての名称も、「日本語」ではなく「国語」としているのもその表れのような気がします。

これは、私が教える「中学校三年分の英文法を血肉にする講座」にて一番初めに確認する言語の骨格を構成する部品たる「名詞」「動詞」「形容詞」がそれぞれどのような役割を果たすのかが分かるように定義させるのですが、これを明確に言える人が本当に少ないのです。

日本人は、自分が自由自在に使っている(と思い込んでいる)日本語の構成要素が何なのかを分析した経験がないのです。

逆に言えば、このことを一度しっかり分析して再認識することができれば、その人は日本語という道具を使ってあらゆる言語の基礎的な仕組みについて理解することができるのです。

つまり、その経験をすることで、4技能の相互の関係や段階的な存在である事実についても当たり前のように理解することができ、本書のような指摘を受けなくても、「4技能化」と言いながら「書く」と「話す」の2技能に特化して教育しようとすることのばかばかしさに即座に気付くことができるはずなのです。

そのことすら経験させることができていない小学校、中学、高校の12年にわたる「国語」の授業は一体何をしているのかと腹立たしくなります。

「人と人との関わり」をスムーズにするための言語をより効果的に運用できるという意味での「コミュニケーション」の向上はまさしく「国語」の授業で行われるべきもので、英語という枠でやるべきことでは決してありません。

この矛盾になぜ気が付かないのか?

小学校英語教育、学校教育のオーラル化、そして本書で取り上げられている「大学入試の4技能化」などは、この「コミュニケーション」の問題を英語教育の責任として追及された結果、導き出されたものですが、それは実は英語教育の責任ではなく、国語教育の責任としてまず追及されるべきものです。

そして、その責任が的確に追及されていたならば、英語教育行政がここまで迷走する必要性もなく、かつ日本人の教育にとっても最も重要なもののはずである国語教育がまともな方向性を持つことができたはずです。

本書において著者が、「コミュニケーションのことをいうのなら、まずは日本語のコミュニケーションができていないということを考えるべきでしょう」とさらっと書かれた一言に、私としてはものすごく敏感に反応してしまいました。