日本人と英語

コミュニケーションの責任は誰に

2018年10月21日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「これからの英語教育の話をしよう」から、10テーマをいただいて議論をしていくシリーズの第六回、今回のテーマは「コミュニケーションの責任主体」です。

前回の記事では、文科省が英語学習の目標の一つである「文化の理解」の対象を、英語圏の文化ではなく、あらゆる「多様性」への理解へと変更したことについて見てきました。

今回は「多様性」という視点からコミュニケーションを見てみたいと思います。

まずはこの件に関して本書から非常にハッとさせられた一節を抜き出します。

「筆者はコミュニケーションの責任は使用言語が何であれ、相手がだれであれ、トピックが何であれ、どのような状況であれ、基本的に双方(二人以上の場合は参加者全員)にあると考えています。つまり、英語が堪能な者と堪能でない者が、EFL(外国語としての英語)のやり取りで意思の疎通がうまくいかなかった際、その責はお互いにあります。(当たり前な気もしますが、そんなことは頭にかけらもないと思われる英語話者は悲しいかな、たくさんいます。)コミュニケーションの成立はお互いの歩み寄りの賜物です。その意味で英語の『ネイティブ』も、彼らの英語の国際通用度や対応力、課題解決能力を評価されるべきと言えます。」

ハッとさせられましたが、すぐに自分自身もこの意味をかみしめた経験があることを思い出しました。

私がアメリカに留学したてのころのことですが、ネイティブの人と話をするときに、最初は誰もが私の英語力を知りませんので当たり前のように「まくしたて」ます。

当然、そのスピードについていけない私は、「Sorry, I do not understand what you said. Can you say it again?」ということになるわけですが、この後の相手の対応が2パターンに分かれるのです。

一つは、スピードを落とし、表現を平易なものに変えてもう一度言う人。

もう一つは、スピードも表現も全く変わらず同じようにもう一度言う人。

前者は、「コミュニケーションの責任は双方にある」ことを理解している人であり、後者は理解していない人です。

実はこれ、自分以外のものを許容する文化の「多様性」への理解と本質的には同じことだと思います。

多様性を認めるということは、独善的にならないということです。

これからの世界は、厳密には「グローバル化」ではなく、「国際化」であるべきだというブログ記事を以前に書きましたが、ここでもそのことを強く印象付けられました。

ネイティブがよその国に来て、英語をまくしたて、相手が理解できないことに困惑し「ダメだこりゃ!」という態度をとることこそ、「ダメだこりゃ!」と評価されるべきなのです。

そのようなことをたくさん経験している日本人だからこそ、よく理解できることではあるかもしれません。

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