日本人と英語

一度習得した言語は忘れない?

2015年9月27日 CATEGORY - 日本人と英語

一度習得した言語

 

 

 

 

 

 

 

前回 に引き続き、「日本人に相応しい英語教育」について、書こうと思います。

本書は、言語教育について様々な問題について、非常に論理的に、そして説得的にその根本にある理由を解説してくれる良書です。今回のブログでは、「幼児が修得した言語は帰国すると忘れるか?」という命題についてです。

この問いに答えるために、著者は言語を二つのレベルに分解して考えています。

一つは、意識下で自動的に構築された文法機構を中心とする言語能力です。これには、音韻情報も含まれます。これらの能力は、その仕組みが一度でも日常生活で使用できるレベルでプログラムされると、長い間使用しない場合、一旦不活性化してしまうけれども、再びその言語を使用しなければならない状況になれば、徐々に活性化される性質を持つようです。比喩的に言えば、歩行や水泳、自転車の運転と同じように一旦習得すると、長期間やらないと感覚が鈍りはするけど完全には消えることがない能力といえます。

それに対して、二つ目は、個別的な情報、具体的には個々の単語や熟語、決まり文句などがそれにあたります。一部、幼児期における使用頻度の高い基本語などは保持される可能性は高いとは思われますが、英語では特に綴りと発音が一致しない場合も多く、記憶から消え去ってしまう可能性が非常に高いといいます。

この二つを総合して考えると、例えば、小学校低学年までに帰国してしまうと、もともと子供の日常使う語彙程度しか修得していないため、せっかく、システムとしての文法機構を保持していたとしても、そのシステムの上で働くべき個別情報が忘れ去られてしまうので、結局はコミュニケーションが成立しないということになります。

そのため、このようなケースでは、何らかの形で、すでにある個別情報を維持し、さらに、よりレベルの高い個別情報を継続的に授けるようなサポートをすることで、システム自体を継続的に作動させることができるような環境を与えないと、非常に「もったいない」ことになってしまうと言えそうです。

ここで明らかになったのは、文法というシステムは、単語などの個別情報と異なり、長期にわたり脳に定着する仕組みだということですが、日本人の文法学習によって身についた仕組みにも同じような考えがなりたつのか少し心配になりました。

気になったのは、前回 の記事にて引用した以下の文章

「私が米国アラバマ大学で日本語を教えていた1989年には何人かの駐在社員から『赴任時は聞き取れなかったが3か月ほどたったころから、よく解り商談もできるようになった』と伺った。皆さん一流大学の出身者だった。受験勉強で鍛えた文法・語彙・読解力が運用環境で結実したのだ。」

この文章における「皆さん一流大学の出身者だった。」という部分です。文法を言語を運用するシステムとして捉えて学習をしたかという疑問です。多くの人は、そうではなく、単に「暗記しなければならない」知識だという認識で学習していたのではないでしょうか。それでは、言語運用のシステムとして習得したとは言えないと思います。

上記の文章の「皆さん一流大学の出身者だった。」と限定されていたのは、システムとして機能させてはいないけれども、受験勉強を徹底した人には、単純な情報記憶ですが、その徹底ぶりからかろうじて残っているということなのではと思ってしまいました。

「日本人に相応しい英語教育」として、「コミュニケティブアプローチ」ではなく「文法訳読中心学習」を著者は提唱されており、私もこの二つでのみ比較すれば、もちろん著者に賛成です。しかし、それだけでは、コミュニケーションにはつながらないことは事実です。そして、コミュニケーションの基盤としての文法の基盤として残っているケースが「皆さん一流大学の出身者だった。」というのではいかにも不十分のように感じるのです。

ですから、私は文法をルールとしての記憶にとどめる従来の英語教育に、あと少し、それをシステムとして活用する経験を与えてあげられるのであれば、それが本当の意味での「日本人に相応しい英語教育」だと思います。

そのため、私はこの文法を会話に結びつけるための中学三年分の文法を血肉にする「ウェブ」講座とそれを確実に実践へとつなげる「生」講座をLVに設けているのです。