小学校英語反対の理由
2013年11月3日 CATEGORY - 日本人と英語
皆さん、こんにちは。
前回の記事で、「危うし!小学校英語」という鳥飼先生の著書を紹介して小学校英語に警鐘を鳴らしましたが、多くの方からその反対理由を具体的に聞きたいというお声をいただきました。
そこで、この機会に丁寧に説明してみたいと思います。
私自身、色々なところで主張しているのですが、ほとんど鳥飼先生と一緒の考えに行きついてしまいます。
ですが、今回の記事では、鳥飼先生の書籍を引用せずにその理由を私自身の主張として書いてみたいと思います。
私の主張には大きく分けて二つ、消極的な理由と積極的な理由があります。
まずは、消極的な理由。
つまり、世の中で叫ばれている小学校英語を推進する理由が実は誤っているので、その理由をもとに小学校に英語を導入してもあまり意味はないという観点です。
それは「臨界期仮説」に基づく主張の誤りです。
「臨界期仮説」、すなわち英語は臨界期(12歳くらいまで)に習わないと「自由自在に話せるようにならない」とか「発音を正確に習得することができない」という仮説に基づいて、小さいときから英語に触れさせることが重要で、中学からではなく小学校から始めるのがいいに決まっているではないかという主張です。
「早くから始めれば、ネイティブのようになれるのだから中学までやらないのはもったいない」、「英語圏の赤ちゃんが言語を習得するのは、英語に早い段階から触れるからだ」というようなものです。
言語を母国語として身に着けるほどに徹底する場合には、臨界期仮説は一定の説得力を持っていると思います。しかし、日本の英語教育のように外国語として言語を学ばせることを議論するときにこの仮説を持ち出すことはいかにもナンセンスです。
なぜなら、赤ちゃんが言語を習得するときに浴びるであろう英語の分量と、たかだか週に1回そこそこで30名に対して一人の先生によって行われる授業で与えられる英語の分量とは比べるべくもないからです。
そのような環境しか与えられない前提のもとで、「臨界期仮説」を持ち出すのは明らかに無理があります。
週に1回そこそこで30名に対して一人の先生によって行われる授業しか与えられない条件のもとでは、母国語によってある程度分析的な考えをできるようになった段階、すなわち中学生くらいから文法という補助具を使った形がもっとも有効で現実的です。
逆に言えば、まだ分析的思考ができる状況にない段階で週に一回程度の分量で英語に触れたとしても、体系的な理解など望めるべくもないどころか体系的に理解できないことを強制されることによって多くの児童が、嫌いにならなくてもよい英語を嫌いになるリスクを生じさせることにもつながります。(この意味では、こちらも積極的理由かもしれません)
また、発音に関しても、ネイティブのような発音になることは初めから無理ですし、なる必要性はほとんどありません。そうならなくても全く問題なく意思の疎通を図ることが可能になるということを日本人は知るべきです。
このようにネイティブでない日本人にとっての英語の本質を理解していないことこそ問題なのです。
ですから、臨界期仮説を理由として小学校英語を推進することは、その理屈が破たんしているため、あまり意味はないと考えます。
これに対して、積極的な理由。
つまり、小学校に英語を導入することで本来やるべきことに必要な時間を奪ってしまうため、決して導入してはならないという観点です。
小学校高学年になれば日本語という母国語を自由に操ることができます。この時期の子供たちは、このスキルを活用しながら日本語で物事を考えることを深めていく必要があります。
さまざまなことを自ら調べ、考え、そして日本語というツールに乗せて相手と意見を戦わせる。
これらのことを実現するためには、まず国語や算数、理科社会の学習をしっかりすることが大切ですし、それと平行して読書も必要でしょう。
これらの活動を通して、充実した思考の基礎を身に着けることの必要性はいくら主張しすぎてもしすぎることはないと思います。
それに対して、英語は所詮は「ツール」でしかありません。
この点を見誤ることなく、日本人にとっての英語というものをもっと過不足なく根本的に考えるべきです。
小学校での全体の授業の時間が決まっている中で英語の時間を設け、その他の教科の時間を削るということは、「思考の根本」を犠牲にして、単なる「ツール」に過ぎないものを持ち上げることに他なりません。
「中学生になった時点で「思考の根本」に基づいた分析的能力を駆使し、文法という補助具を活用しながら「ツール」に過ぎない英語を知識として身に着けさせる」という従来の英語教育は、ここまではまったく問題ありません。
問題があるのは、それだけで終わりにしてしまっていることです。
前回の記事でも書きましたが、ほとんどの日本人がここで終わってしまっているために、この充実した英語知識を「無駄な」ものとしてしまっています。
適切なモチベーションと機会(英語を使用する環境)を与え、その知識を活用して爆発的な上達を可能とすることを仕組化することで「無駄ではない」ものに変えていくことが重要です。
日本人の多くが、一見すると無駄のように見える経験のおかげで、その素地を既に身に着けているからランゲッジ・ヴィレッジの国内留学では「10年やってもできなかった英会話が2週間でできてしまう」ことを実現することができるのです。
しつこいようですが、英語は所詮「ツール」。
「思考の根本」を身に着けることと同列に考えるようなものではありません。
鳥飼先生は批判していますが「英語社内公用語」を導入した楽天の三木谷社長の本に「たかが英語」というものがありますが、まさにその通りだと思います。