理想的な大学英語教育
2017年10月6日 CATEGORY - 日本人と英語
前々回、前回に引き続き、野口教授の「超英語法」よりテーマを頂いて、議論していきたいと思いますが、最終回の今回は、「理想的な大学英語教育」についてです。
野口教授は、「聞く」トレーニングの重要性とともに、各自の専門分野における専門用語の重要性について述べられており、その威力について、英語をほとんど知らなかったとしても、専門家同士であれば「通じてしまう」とまで言っています。
ですから、その威力を最大限に生かそうと思えば、専門分野における英語教育を充実させることが重要だということになります。
にもかかわらず、日本の大学における英語の先生は、ほぼ英文学科を卒業した人たちで占められており、専門分野における英語教育はほぼ不可能な状態になっていることを指摘されています。
実は、私はこの点についてはすこし野口教授とは異なる見解を持っています。
私は、ランゲッジ・ヴィレッジのウェブサイトにおいて、日本人にとっては、インプットとしては基本的には完了しており、それを使う機会が圧倒的に不足しているために、「英語が使えない」状態なので、それを使う機会を提供するというのが、私たちのやるべきことですと伝えています。
しかも、専門用語については、それぞれの所属する専門分野ごとに異なるわけですから、それをランゲッジ・ヴィレッジの講師に教わろうという姿勢はそもそもおかしいと述べています。
専門用語は、講師よりもそれぞれの分野で活躍されている生徒さんのほうがよほど詳しいはずですし、それをどの程度まで必要とするかということについてもずっとよく知っているはずなのです。
ですから、ランゲッジ・ヴィレッジに求められていることは、各々が持っている、もしくはこれから吸収していく専門用語を自由に使いこなすための基礎の部分を「生活と言語の融合」した環境にて徹底的に鍛えることだと考えているのです。
この違いは、言語というものをどの立場から見るかということによって生じているものだと考えます。
大学は「大きな学問」をやるところです。
しかし、言語はそもそも「大きな学問」ではなくトレーニングによって身に付けるべき「ツール」にすぎません。
ですから、野口教授の主張は、大学における英語教育を専門分野という「大きな学問」を、国内だけでなく、国際的に展開するために必要な「ツール」だと考えてなされたものだと考えています。
であるならば、大学における英語教育のあるべき姿とは、まさに野口教授の仰るような「専門分野の講師が専門分野を英語で教える」ものであるべきかもしれません。
ただそうなると、日本の大学もすべて英語でやってしまえばいいということになりかねませんし、実際にそのような動きも実際にあります。
しかし、この問題は、そう単純なものではありません。
実際に私は、それらの動きについて、過去の記事においてきっぱりと否定をしています。
そのような前提でこの問題を考えた時に日本の大学教育のあるべき姿とは次のようなものだと思います。
日本語で専門分野をしっかりと学んだうえで、それを英語に載せて世界に発信することができるくらいのレベルをきちんと達成できるようにするために、少なくとも現在割り当てられている英語の授業を、「専門分野の講師が専門分野を英語で教える」時間とする。
そうすれば、ノーベル賞を確実にとり続ける世界に冠たる技術を維持しながらも、経済を専攻する学生が、「円がドルに対して5円高くなった」とか「景気回復のために減税が必要である」というような表現もできないという事態だけは避けることができるはずです。