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ベルマークの功罪

2024年7月12日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

今週から始まった木曜日のドラマ「クラスメイトの女子、全員好きでした」の初回を見ました。

「主人公の枝松脛男は、小説家志望なのだが何度賞に応募しても全くかすりもしない。うだつの上がらない男。ある日、中学生時代に埋めたタイムカプセルが掘り出され、自分のものが送られてきた。しかし、それはかつて自分以外の誰かが埋めた『春と群青』という小説が書かれたノートだった。小説のアイデアが全く浮かばない脛男はそれをそのまま新人文学賞に応募し、それがなんと受賞。その副賞として、新連載も決まってしまい、担当編集者の片山美晴にその事実を打ち明けるも、彼女は『このままダマでいきます』と判断。脛男の中学生時代の経験をもとにした作品を連載していくことに決まる・・・・」

その連載作品の第一回目のテーマが「ベルマーク」で、当時一緒にベルマーク委員を務めていた谷口さんからベルマークを1000枚集めたらキスしてあげると言われ・・・・

と、前置きが長くなってしまいましたが、この「ベルマーク」、この単語を聞くこと自体、本当に久しぶりで、ノスタルジックな気持ちにさせられたのは確かなのですが、正直言うと、私は小学生のころから、このベルマークについてはあまりいい印象を持ってきませんでした。

何がそうさせていたのかと言えば、一番大きい理由は、その意義(意図)や仕組みがほとんどよく分かっていない中でベルマークを集め(集めるのは基本的に親ですが)学校に持ってくることを強制されたことです。

私は今でもそうですが、事の大小にかかわらずそのことの意義や意図が分からないことに対して全くモチベーションが上がらないのです。

では、このモチベーション問題を解消するべく、ベルマーク運動の定義・意義(意図)・仕組について調べてみましたので以下にまとめます。

「ベルマーク運動は、学校や教育施設、公民館などをはじめとする生涯学習施設の教育環境整備への助成と、交通などの面でハンデキャップのある山間・離島(いわゆるへき地)の学校や特別支援学校、院内学級や被災校、開発途上国の教育に対する援助を組み合わせて行われる運動である。ベルマーク財団の資金を出しているのは、ベルマークがついた商品を生産・販売している『協賛会社』で、たとえば、1点(=1円)のベルマークがついた商品を購入した場合、その1円が協賛会社から財団に支払われる。協賛のメリットとしては、まず、文部科学省お墨付きの教育助成活動に参加していることをアピールでき、企業のブランド力やイメージを高められることが挙げられている。また、ベルマーク運動参加の参加団体から優先されるため営業の面でもメリットは大きい。商品の包装紙やパッケージにつけられたベルマークを切取り、学校(PTA)・団体ごとに集めて財団に送ることにより、1点あたり1円がそれぞれの団体のベルマーク預金になり、貯まった預金で自分の学校・団体の設備品などを購入できる。貯まったポイントで商品と交換すると勘違いされることがあるが、あくまでも預金で購入するシステムである。購入できる備品を取り扱うのは協賛会社とは別に『協力会社』と呼ばれる。(もちろん一つの会社が兼任することもありうる。)これらの商品には食品、文房具、日用品といった家庭品が多い。以前は、消耗品は購入できないという規則があったが、今は協力会社が扱っている商品であれば何でも購入できる。さらに、この設備購入代金の10%が、協力会社からベルマーク財団に寄付される。これが『援助資金』としてプールされ、ベルマーク財団を通じて僻地学校や特別支援学校など、援助を必要としている子どもたちのために使われている。このように、『協賛会社』はベルマーク預金の提供を、『協力会社』は備品の供給と援助資金の提供をすることでベルマーク運動が成り立っている。」

これで、定義と仕組についてはよく理解できました。

特に、子供のころからずっと疑問に思っていたのは、その購入に充てるお金を誰が負担していたのかということだったのですが、それが氷解したのは大きいです。

しかし、その仕組みを理解した上で、改めてこの運動に最大限協力的になれるのかと問われたとしても、未だかなりの「?」があるのは否めません。

それは、以下の疑問が残るからです。

①「なぜ、目標達成のためそのような間接的な労力を費やす必要があるのか?」

その目標を達成するためには、直接的に賃金労働をすることで得られる収入を充てたほうが圧倒的に効率的であるはず。つまりは、「労働ボランティアの時間から考えると、その分を募金にした方が早い」ということ。しかも、親の多くが共働きとなった昨今、PTAを組織するのが難しくなってきていることを考えればなおさらです。

②「その目標自体が本来教育行政の怠慢による予算不足によって生じているのではないか?」

本来その目標は教育行政の予算で賄われるべきであり、いわゆる本来これを負担すべき文科省の逃げ道になっている可能性が大きい。つまり、「①であったとしても、いやだからこそ子供の教育に資するのだ」という考えですが、これはある意味論理のすり替えだということに私はアメリカ留学を通して気づかされました。例えば、日本では学校において子供が掃除をすることが当たり前になっています。一方でアメリカでは(他の先進国でも)そのようなことはほとんどありません。このことをどうとらえるべきかを考える必要があると思います。

私としては、もし「①であったとしても、いやだからこそ子供の教育に資するのだ」ということが本当にその通りで、実際にその「教育効果」の発現が立証されているのであれば、まったく異存はありません。

しかしながら、一見まったく別の事例のように見えるかもしれませんが、公立学校において本来の教育に掛けるべき教師の時間の多くが雑用に取られているという、いわゆる「教育現場のブラック化」がそうでない可能性を示唆しているように思えるのです。

つまり、「子供による掃除」や「ベルマーク運動」が、将来を担う人材育成に対する予算配分があまりにも少なく、それによって教育現場がおろそかにされている現在の実態のカモフラージュとして機能しているのではないかということです。

「教育的効果」の問題については、私個人としてはまだ半分くらいは、否定しきれない部分がありますが、少子化が鮮明な現状においてもなお、ここまでの予算編成における教育の比率の低さを目の当たりにすると、半分は疑わざるを得ません。

「やりがい搾取」という言葉がありますが、私たちはそのようなカモフラージュにごまかされない本質を見抜く目を養う必要があると思います。

 

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