人間は母国語でしか思考できない
2016年5月15日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
このブログで明治大学の齊藤孝教授の書籍は何回もご紹介していますが、また今回も齊藤教授の新刊「語彙力こそが教養である」という本をご紹介しながらタイトルのテーマについて考えてみたいと思います。
私は、英会話サービスを提供している会社を運営していながら早期英語教育にあまり積極的になれない理由をいろいろな例を持ち出しながら説明するようにしていますが、最近以下のような例をよく使います。
「『母国語で思考する』力は、PCでいうところの『OSをインストールすること』であり、『外国語での会話』力は、『アプリをインストールすること』であるから、その重要性は比較するべくもない。だから、早期に、そのどちらかに使えるような時間が少しでもあるならば、絶対に日本語で思考する力を高めるような活動に充てるべきだ。」
このような考え方をまとめるのに、いままでの齊藤先生の著作からも多大な影響を受けていると思っているのですが、今回も本書において非常に良い刺激を受けました。
ここで、念のため「教養」とは何かについて確認しておきます。
例によって、ウィキペディアでは、
「一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態」
これは、知識や常識という道具を使って、物事を理解したり、自ら新しいことを創造したりすることと言い換えられ、教養とは、まさに(母国語で)思考する力に他ならないと思います。
そして、本書のタイトルはまさにこのことイコール「語彙」だと断定しています。
この点を齊藤教授は以下のように豊かな語彙でより深く説明してくれています。
「より多くの語彙を身に付けることは、手持ちの絵の具が増えるようなものです。8色の絵の具で描かれた絵画と、200色の絵の具で描かれた絵画のどちらが色彩豊かで美しいか?言わずもがな、200色のほうでしょう。語彙力をつけるということは、今まで8色でしか表現できなかった世界が、200色で表現できるようになるということなのです。」
そしてこうも言っています。
「語彙が豊かになれば、見える世界が変わるということ」。
つまり、知識や常識は人間の頭の中には「語彙」という形でしか入りません。この道具を活用することで、世界をそのボリュームに応じて、切り取り(理解し)、また自ら新たな知識や常識を作り出す(創造する)ことができるということではないでしょうか。
そして、これは私の考えですが、人間はやはり母国語でしか、この作業はできないと思います。もちろん、外国語由来の知識を利用して、思考することはできるかもしれませんが、その知識を利用する力はあくまでの母国語だということです。
ですから、まさにPCでいうところの「OS」と「アプリ」の関係です。
このことを良く表しているエピソードとして本書の中に引用されている事例がありましたのでこちらを書きだしておきます。
「ある企業で聞いた話ですが、工場で働いている人たちの仕事の能率があまりに悪いので、試しに国語のテストをしてみたら、びっくりするぐらい語彙が少なく、成績が良くなかったそうです。たしかに『うぜーな。うぜーよ。メシいこうぜ。マジっすか?』くらいの言葉で済んでしまう世界がある。(中略)それはマズいと思って、その企業は国語教育を始めたんだそうです。それで、彼らが国語が少し面白いと思い始めたあたりから、俄然仕事の効率が良くなった。」