国内「常識」と国際「常識」
2010年10月10日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
少し前に、インドで「名誉殺人」が続発しているということがネットニュースで取り上げられました。
いまだに法律とは別に慣習としてのカースト制度が根強いインドにあって、別カースト間の婚姻は許されず、それを侵しての結婚は、「死」に値するものだとして、家族によって殺害されてしまうというものでした。
しかも、それは、家族の名誉を守るものであり、それを行った父親や、兄弟は「英雄」として褒め称えられるというものでした。
詳しくは こちら
そのことについて今週はブログに書いてみようと思っていましたら、中国人の活動家 劉暁波氏が、ノルウェー政府やノーベル賞委員会への中国政府の強力な圧力にもかかわらず「長年の中国民主化への非暴力的努力」に対して受賞をされるというニュースが飛び込んできました。
この二つのトピックは一見まったく関係がないようにも見えますが、私は、ここで、この二つを関係付け、少し別の視点からも捉えておく必要もあるのではないかと思いました。(もちろん、私自身、現代文明の中で国際的常識の中で生活していますから、感情的にはカースト制度に対する疑問を持っていますし、中国民主化賛成の立場であることは当然ですが)
たとえば、カースト制度などというものは、現在の国際的な法律制度が確立したのが長く見ても200年程度なのにもかかわらず、何千年も前から彼らの精神的な支柱となっている慣習です。
まず、それを現在の国際常識はそれを許さないということで、一方的に断罪していいものなのかどうなのか・・・
そして、中国の民主化への国際的圧力にしてもそうですが、今回のノーベル平和賞の受賞の決定があまりに、意図的なもので、はじめから中国の共産党一党独裁体制に対しての国際常識からの攻撃のようにも見えてしまったのは私だけでしょうか。
今までもノーベル平和賞というのは、疑問符?がつくことが多かったように思いますが、それでも受賞者はネルソンマンデラ氏のように、圧政に耐えて、最終的にことをなしてそれが平和への貢献として世界に認めさせた人物であったはずで、そうあり続けるべきだと私は考えます。
なぜなら、ノーベル賞はあくまでも「賞」であって、「応援」ではないと思うからです。
今回のケースで、受賞者の劉氏は、まがいなりにも、国際社会から立派な国家としてみとめられている中国の法律によって「犯罪者」として服役している人物、そして、何か具体的なことをなしたわけではなく、今後の中国民主化のリーダーとして「期待」される人物に現在のところとどまっているわけです。
誤解されてほしくないのは、私は繰り返しますが、当然にして自分がカースト制度のある国に絶対に生まれたくない、すなわちそんなものはないほうが良いと思っています、
そして、中国の民主化についても大賛成です。
特に、私は、今回の尖閣諸島の問題での中国の対応については日本人として熱くなった一人です。(日本政府の対応にはそれ以上熱くなってしまいましたが)
ただ、ここで、私が違和感を感じてしまうのは、これらは、彼ら自身が自ら必要であれば自己改革をすべきことであり、それらの動きに対する他国のサポートというのは非常にデリケートなものでなければならないというのは世界の歴史が、何度も証明してきていることだからです。
タリバン崩壊後のアフガニスタン、イラク戦争後のイラク・・国際常識としての介入後のそれらの国は、国際常識的にみて理想的なものとなったでしょうか?
他国に対しての侵略でないならば、その国の仕組みについては、その国の国民の総意としての政府体制を国際社会は尊重するという立場をとることはいたって当然です。
そもそも、国連は台湾ではなく、はじめから一党独裁の中華人民共和国を、正式な中国と認めているではありませんか!
中国のノルウェー政府に対する態度についても当然、違和感は感じてますが・・・