国語の試験問題の本質
2017年4月26日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回まで実に三回にわたって、「国語のできる子どもを育てる」という本からいただいた主に日本語で「書くこと」の重要性について考えてきましたが、最終回の今回は、「読むこと」に関連して、現行の国語の試験問題の本質とその問題点について考えてみたいと思います。
そもそも国語という科目の目的は、読み書き能力の向上をさせることです。
前回まで、「書くこと」について考えてきましたが、学校教育においてそれが適切に目的に沿って行われていないために、どうしたらよいかという代替案の提示を行いました。
今回は、「読むこと」についてですが、これについても本来あるべき姿からあまりにも離れすぎている現実があることを示してくれています。
それは、学校教育における読書体験があまりにも「矮小化」されてしまっているということです。
国語の教科書は、断片的な文章が散在するだけの質的にも量的にも圧倒的に貧相なものになってしまっており、教科書を読むだけでは、まともな読書活動などというものは到底期待できません。
したがって、そのような教科書を前提とした試験問題も当然にして矮小化されたものとならざるを得ません。
具体的には、読解問題と称して、その設問を満たす情報を文章内から収集したり、確認したりする作業をできるだけ素早くさせるものとなります。
つまり、提示された文章は、著者の意図とは独立した「切り取られた文章」であり、その範囲の中で限られた時間内で確認作業ができるかどうかが問われるということです。
もちろん、これはこれで、その「切り取られた」文章の範囲内で、日本語のルールや論理性の確認を行うという点では、意味のあることだと思います。
私も、昔塾の講師をしていたころ、実際の文章の作者がこの問題の模範解答を見て、「私こんなつもりで書いてない」という発言をしたと言うようなエピソードを用いて、このような問題はまさに、著者の意図とは独立した「切り取られた文章」であり、その範囲の中での論理では、著者の考えとは当然異なることも出てきて当たり前なのだという説明をしたことを思い出しました。
ですが、そこにある文章の断片は、もはやじっくりと読み込まれたり、理解されたり、好奇心を持たれたりすることのない「死んだ」文章ですし、またその文章以外の他の事象や文章に発展、展開されることもないという点で、やはり非常に「矮小化」されていると言わざるを得ないと思います。
本当の意味で、子供たちの読解力、想像力、もっと言えば知性を育て、そしてそれを評価したいのであれば、本文全体の理解確認作業ができるかどうかまで評価してあげる仕組みを作るべきだと思います。
そして、そのことを諦めてしまっていることが、国語から生徒を遠ざけてしまっている元凶ではないでしょうか。
そのことを乗り越える仕組みの構築が、「事務処理」の得意な人間を育てるのではなく、「創造的」な人間を育てるための教育には絶対に必要です。。
まずは、隗より始めよと自分に言い聞かせようと思います。