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2016年4月29日 CATEGORY - 代表ブログ

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皆さん、こんにちは。

石原慎太郎氏の新刊「天才」を読みました。

これは、石原氏が、故田中角栄首相の金権政治のを真っ先に批判して、それがきっかけで最終的に彼の政治生命を絶つ流れを作った張本人でありながら「俺」という一人称で彼の人生を語った小説です。

かつて最大限に批判した相手を一人称で描き、しかも、そのタイトルが「天才」ですから、私だけでなく世の中が興味を持たないわけがないと思います。

この本は、彼の生い立ちから、会社経営者として、そしてもちろん政治家としての活躍ぶりを「俺」という一人称で書いているだけあって、かなり引き込まれます。

高等小学校(当時は9歳までの尋常小学校までが義務教育で、10歳から14歳までの高等小学校は義務教育ではなかったが)しか出ていないにもかかわらず、経営者としてはいくつものファミリー企業を育て上げ、政治家としては内閣総理大臣まで上り詰めるなかで、膨大かつ明晰な知識とやるといったら徹底してやり抜く実行力を発揮することで「コンピューター付ブルドーザー」とまで呼ばれた彼を「天才」と呼ばずして、誰を呼ぶべきかという思いに駆られます。

そして、本書を読むことによって、なにより「天才」という存在を今までで一番体感的に理解できたような気がするのです。

他人を「天才」と呼ぶことについて考えたとき、ふと、以前にご紹介した福沢諭吉の「学問のすすめ」の一節を思い出しました。

それは、嫉妬・怨望の感情についての一節です。

「人間社会において最大の害があるのは「怨望」である。欲張り・ケチ・贅沢・誹謗の類はどれも大きな欠点だけれども、これをよく見てみるれば、その本質のところでは別に悪いモノではない。それを出す場所柄と、その強弱の程度と、方向によっては欠点でなくなることもある。ただ、怨望は、そもそもの働きにおいて、どんな場面でもどんな方向性でも完全に欠点一色である。怨望は、働き方が陰険で、進んで何かを成すこともない。他人の様子を見て自分に不平を抱き、自分のことを反省せずに他人に多くを求める。そして、その不平を解消して満足する方法は、自分に得になることではなく、他人に害を与えることにある。」

いやはや、なるほどなと思わざるを得ない見事な説明でした。

欲張り・ケチ・贅沢・誹謗の類は、場所や程度、方向によっては、もちろん欠点になることはあるが、逆にそれは、自分自身を高めることにもつながり、自分が高まれば、間接的には社会を高める可能性もあるが、嫉妬・怨望だけは、場所や程度、方向に関わらず自分自身も社会をも高めることにつながることはないという、この世に存在する価値の全くない感情だというものすごく鋭い視点でした。

このような、諸悪の根源である嫉妬・怨望という感情ですが、不思議なことに、実は本書を読んでいる最中に、田中角栄という人に対して、この嫉妬・怨望の感情が一切湧き上がってきませんでした。

普通に考えて、ほとんどゼロからのたたき上げで、財界でも政界でも最高のレベルにまで到達した他人の成果に対して、一切のこの類の念が起き上がってこないことには正直に不思議だと思いました。

ただ、同時に非常なすがすがしさを感じました。

このことから、嫉妬・怨望という、存在価値が全くないにもかかわらず人間がどうしても持ってしまう感情を、持たせないぶっちぎりの「存在」を実は「天才」と呼ぶのではないかと気が付いたのです。

石原慎太郎氏がこの本のタイトルを「天才」としたのも、もしかしたらこれが理由だったのではないかと推測してしまいました。