教えるということ
2018年10月3日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
今までこのブログで二度、日本の国語教育に一生をささげた女性教師 「大村はま」について書きました。
一度は、鳥飼玖美子教授の著書のあとがきでの言及を取り上げた記事、そしてもう一つは彼女の評伝を取り上げた記事でした。
どちらも「教える」ということに一生をささげた彼女の姿勢がよく分かるものでしたので、彼女に対して非常に興味と尊敬の念を持ったのですが、本人の著作は読んでいませんでした。
先日ようやく、彼女自身の著作「教えるということ」を読みましたのでご紹介します。
著者の教育に関する信念は次の若い教員に対する研修講演会での彼女の言葉に要約されると思います。
「教育の場がいかにかけがえのないところか、また若いから失敗してもよいというのは絶対にないのだと認識してほしい。なぜなら、子供は再びその日を迎えないし、その時間も迎えない。教師たる自分は最高の自分でなければならないことはいつだって変わらない。」
また、こうも言っています。
「小学校で得させられなかったものを中学校で得させることはできず、中学校で得させることができないことを高校で得させることはできない。小学校の時にやらなければならないことがたくさんあるのです。」
つまり、「教える」ということは、それほど恐ろしい真剣勝負なのだということです。
であるならば、少なくとも教師になることを選択する時には、自分自身が今選択しようとしているものが、そのような恐ろしいものであることを認識した状態であるべきだと思います。
公務員だから、お客に頭を下げなくていいから、食いっぱぐれがないから、たまたまその教科が好きだから、などといった自分本位のモチベーションでは決して選択してはならない職業だと思います。
そして、著者は、選択の際だけではなく、実際に教師になってからの「教師の資格」についても以下のように指摘しています。
「私は研究しない教師は『先生』ではないと思います。研究から離れてしまった人というのは、私は、年が20代であったとしても、もう年寄りだと思います。つまり、前進しようとする気持ちがないわけですから。研究ということは、『伸びたい』という気持ちがたくさんあって、それに燃えないとできないことです。そして、子供というのは『身の程知らずに伸びたい人』です。学力があってもなくても一歩でも前進したくてたまらないのです。つまり、研究している教師はその子供たちと同じ世界にいるということなのです。したがって、研究をしないということは、教師失格ということになります。(一部加筆修正)」
その通りだと思いました。
教育の現場にいれば、生徒のパターンが増えていきます。ですから、研究心さえあれば、本来ベテランの教師はものすごく優秀な教師にならざるを得ないはずなのです。
ですが、現実には教師の優劣は年齢では測れません。このことは、著者の言う「教師の資格」がない人がどれだけいるのかということの証明なのだと思います。
教師たるもの、自らの職業に対する自負と常に研究(勉強)し続ける意識を持ち続けること、この二つの覚悟と責任を自覚することを忘れてはならないと思います。