日本語の学校
2014年7月16日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
私はブログをはじめてかれこれ10年近くなります。ですから、文章を書くことに対して抵抗がないほうだとおもいます。ですが、今の今までどうしても文章を書く中で違和感を感じる要素があります。
それは「句読点」の打ち方です。
書いているときの「気分で」打ったり打たなかったり、その結果、句読点だらけになったり、逆にほとんど句読点がなかったり。非常にいい加減に「句読点」を扱ってきました。
今回、元TBSのプロデューサーで演出家の鴨下真一氏の書かれた「日本語の学校」という本の中にその違和感を解消するヒントを見つけました。
本書によると実は「句読点」の歴史は非常に浅く、使われ始めたのは明治以降のようなのです。
それ以前は書き言葉と話し言葉は明確に区別され、書き言葉はいわゆる文語文でした。この文語文は定型、すなわち文章の型が常に決まっていて、文章のどこがアタマでどこがシッポなのか一目でわかる構造になっていました。
ですから、文語体を使用している限りは「句読点」などなくても問題にならなかったというわけです。
それに対して、現代文はいわゆる口語文です。話し言葉と書き言葉が一致しています。そのため、定型だった文語文に比べ、文章のパターンが著しく増え、構文も複雑になりました。そのため、文章の中においても何らかの区切りをつける必要が出てきたのです。ちなみに、口語文でものを書いた最初の成功者は夏目漱石だったようです。
これが「句読点」が誕生したいきさつです。
このように、そもそも「句読点」はその発生から便利のために使われたもので、さしたる規則性は存在しないのです。つまり、どこに打っても誰も文句は言えないということになります。
ですから、私が今まで悩んでいた「句読点」の打ち方については本来悩むべき事柄ではなかったということが分かりました。これからも安心してその時の「気分で」打っていこうと思います。
この夏目漱石をはじめとする当時の文壇の勇気あるイノベーションによる話し言葉と書き言葉の一致は、日本の文学に計り知れない効用をもたらしたと思います。それは、日本語の書き言葉におけるコミュニケーションの効率性と効果性を格段に向上させたということです。
奇しくも前回の記事「非言語的コミュニケーションによる信頼関係構築」のところで紹介したメラビアンの法則に従えば、「句読点」はもちろんのこと、文章のパターンが著しく増え、構文も複雑になったことによって書き言葉という「言語」の中に「非言語」の要素を挿入することができるようになったことが、それを可能にしたと思えるからです。
日ごろ何気なく使用しているこの日本語の書き言葉も、実はかなり最近の人々の意識的な努力によって存在していると思うと、一つ一つの文章を紡ぐことに何とも言えない感慨が伴うから不思議です。