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歴史は暗記じゃないのに

2017年11月29日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

先日(11月14日)、朝日新聞が以下のような記事を掲載し大きな話題となりました。

「大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題だとして、高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が用語の精選案を発表した。「用語が多すぎる」として、教科書の本文に載せ、知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべきだとしている」

この記事が社会的に大きな反響を得た大きな理由は、その削除されるリストの中に吉田松陰や坂本龍馬、武田信玄や上杉謙信といった、誰もが知る歴史上の人物の名前が存在していることでした。

もちろん、歴史はどんどん進んでいるわけで、現代史における用語は増える一方なので、どこかでその調整をする必要はあるはずです。

ですが、私は、この記事で「高校の授業が暗記中心になっているのは問題だからこれらを削除する」としていることについては、むしろ大きな矛盾を感じてしまいました。

私は、歴史を暗記科目だと思ったことはありません。歴史は「物語」だと思ってきました。

つまり、人類がその発展段階において、それぞれの「欲」や「事情」によって必然的に行動したり、また偶然がおこったりしながら進んできた中で、なぜそのような結果となったのかを後世の人間が「理解」した上で、整理したものだということです。

ですから、「〇〇年に××が△△した。」という事実を単なる用語として暗記することには何の意味もないはずです。

その意味で言うと、私立大学の細かな事実を単発に問うような試験は間違っており、国立大学が出すような、「なぜそうなったのかという理由」や「その事実による後世への影響」を問うことにこそ意味があると思います。

そのため、室町幕府から織田信長や豊臣秀吉の統一までの間の戦国時代という時代がどのような意味を持つ時代だったのかを理解するためには、武田信玄や上杉謙信の存在を知ることは必要なことであり、統一を成し遂げた人間のみを登場させるだけでは不十分であることは言うまでもありません。

また、幕末において、西洋の脅威を無視する幕府の状況を何とかしなければならないと考え、犬猿の中であり、絶対に手を組むなどあり得ないと考えられていた薩摩藩と長州藩という二つを連合させた坂本龍馬がいなかったことにすることは、この時代の状況を考える上では決してできないはずです。

つまり、暗記のための用語と考えるか、物語の流れを作る用語と考えるのかという視点が重要だと思うのです。

そのためには、用語の数という画一的な問題に終始せず、歴史を物語として教えられる人材の問題としてもとらえる必要があると思います。

この教育改革が、本当の意味で「大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっている」状況を変えるものであってほしいと思います。