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世の中に「水」を差せるようになるには

2021年12月5日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回の記事「空気の研究」にて、我々日本人の決断の基準は『空気』であるという著者の主張に触れ、またそのことによって決断における責任追及が行われなくなり、決断の結果が失敗に終わったとしても「反省」することができないという致命的な性質について学びました。

ならば私たちはこの致命的な性質から脱却しなければいつまでたっても、失敗から学ぶことができないわけで、今回はその脱却の手段について考えてみたいともいます。

このような「空気」に支配され切っている私たち日本人なのですが、日本語には実はその支配から逃れる手段にまつわる表現が存在しており、私たち自身頻繁に使っていることに気づかされます。

それが「水を差す」という表現です。

この表現は普段、あまりいいイメージとして使われません。全体の雰囲気や勢いを壊すという意味で使われ、「横やりを入れる」の類義表現とされるものです。

以下、その著者の指摘を要約します。

「世の中が空気に支配されるということは、その社会には必ず虚構が存在する割合が高いということだ。そして、虚構とは端的に言えば演劇のようなものだ。つまり、『水を差す』とは、その演劇を見ている最中に、舞台の女形を指して『男だ、男だ』というようなもので、その行為の結果、殆どの場合、当然劇場の外へ退席せざるを得ない。」

ですが、空気に支配されやすい私たちが自らの決断で判断をし、その結果に対して反省することで次の判断の糧にするという性質のトランスフォーメーションを本気で希望するのであれば、この悪いイメージの「行動」を意識的に取らなければならないというのが著者の指摘です。

以下、著者の指摘を続けます。

「『空気』から脱却しうる唯一の道はあらゆる拘束を自らの意思で断ち切った思考の自由と、それに基づく模索だけである。そしてそれを行いうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に探究することであり、すべてはここに始まる。戦時中、日本には『水を差す自由』がなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省がある。したがって、今振り返れば戦争直後、『軍部に抵抗した人』として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の『空気』に『水を差した人』だったことに気づくであろう。ただ、彼らは必ずしも『平和主義者』であったわけではなく、単純に『竹槍で醸成された空気』に『それはB29に届かない』という『事実』を口にしただけである。しかし、この一言がその『空気』を一瞬で雲散霧消してしま『水』となるのである。」

それは単に「事実」を口にするということにすぎないわけですが、実際に舞台の女形を指して『男だ、男だ』と言って、劇場の外へ退席させられる可能性のある言動をあえて行える勇気のある人がどれほどこの日本にいるのかを考えると、このような日本の「空気」が形作られてしまっているのが現実なのだと思います。