日本人と英語

言語間の優劣について

2020年8月23日 CATEGORY - 日本人と英語

先日、書籍紹介ブログにてご紹介した「共通語の世界史」からテーマをいただいて書いていますが、第二回目のテーマは、「言語間の優劣」についてです。

ですが、そもそもこのブログにおける言語に関する私の基本的な主張は、「言語に優劣は存在しない」というものです。

もちろん、世界の多くの人が母国語以外に英語を学んでいる現状を考えれば、「英語が最も便利である」という意味での優劣の概念はあって当然ですが、いずれかの言語が「言語の機能」として優劣があるというのは正しい認識ではないと考えています。

なぜなら、それぞれの言語にはそれぞれの歴史があり、その言語を使ってきた人々の価値観や生活習慣などによって、最適化されてきたのがそれぞれの言語の現在の形だからです。

たとえば、「水」という単語、日本語で言えば温度が上がり熱くなると、「水」ではなく「お湯」と呼ばれるようになりますが、英語では、「お湯」に相当する単語はなく、単に「hot water」と表現するしかないわけです。

これなどは、日本の「温泉文化」と無関係ではないと考えられるわけですが、これをもって日本語を英語より優れているとする考えは全く意味を持ちえないでしょう。

しかしながら、本書におけるフランス語の歴史の記述の中に、この「言語の機能」としてフランス語が英語その他の言語よりも優れていて、だからこそヨーロッパでもっとも信頼性の高い言語としての地位を確立していた時期があったとする一節を見つけましたのでご紹介します。

「事実、フランス語を英語と比較するならば、現代の事例からもフランス語の方がより明晰であることが見てとれる。それはフランス語における前置詞と冠詞の用法によっている。例えば、英語のworld population conference という表現は曖昧であるが、フランス語は『人口に関する世界会議(congres mondial de la population)』か『世界の人口に関する会議(congres sur la population du monde)』のどちらかを選ばなければならない。有名なケースとして、国連安保理決議242号をあげることができる。アラブ諸国はこの決議のフランス語版を好んだのに対し、イスラエルは英語版を好んだ。というのは、占領地に関する重要極まりない点について、フランス語は意味がはっきりしていたのに対し、英語版は曖昧なところがあったからです。」

この問題は、英語でなくとも日本語でも同じことが言えるので言っていることはよく分かります。と同時に、これは以下のように前回の記事にて私が書いた内容とトレードオフの関係にあるように思うのです。

「英語はその歴史をたどってみると、もともとの『ゲルマン語』が様々な言語の影響を受け、『いいとこどり』をしつつ、尚且つ『単純である』言葉に変化を遂げることによって、他のどの国民語よりも『どの国の国民語ではない言語』的な性質を身に着けたと言えるのではないでしょうか。」

「単純である」ということは「正確性を欠く」ということにつながらざるを得ません。

英語は裏を返せば「利便性」のために「正確性」を犠牲にするという価値判断をしたということが言えるのだと思います。

しかも、フランス語においては英語の「world population conference 」というような表記を「許容しない」ということですが、たとえ「world population conference 」を許容する英語においても「world conference of the population」と「conference about the population of the world」を別個に表現することまでを禁じられているわけではないのですから。

その意味では、本書のこの一節をもってしても、私の「言語に優劣は存在しない」という主張は揺るがないことを確認しておきます。

 

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆