開墾地
2023年2月13日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回、「越境文学という奇跡」の記事にて、アメリカ人であるグレゴリー・ケズナジャット氏が外国語として習得した日本語で書いた小説「開墾地」が芥川賞にノミネートされたというニュースを取り上げ、そのことがいかにすごいことかについて書かせていただきました。
小説嫌いの私ですが、この事実を知ってしまったら話は別で、早速読んでみました。
まず感じたことは、書かれた文章があまりに自然で、あらかじめ著者の情報に触れていなければこれがまさか英語ネイティブが外国語としての日本語で書いたものとは到底思えないということです。
このブログでは何度も取り上げている「翻訳本の違和感」など微塵も感じられませんでした。
いや、違和感が感じられないばかりか、「第2言語で書くと摩擦を感じて言葉に対して繊細になれる」という著者の主張の通り、感情の細かな差を表現するのに適しているはずの日本語を母語とする日本人作家よりも、むしろずっと「言葉に対する繊細さ」を感じさせられる文章でした。
一つ例を挙げてみましょう。
これは、アメリカ人であるラッセルの母親(彼が二歳の時にイラン出身でアメリカ留学を果たしてエンジニアとして働く男と再婚)と父親(すなわちラッセルの継父)夫婦喧嘩を描写した文章です。
「二人の喧嘩を聞いていた時、ラッセルには母親の言葉の論理が理解できなかった。話の意味を探し求めて、要点をつかんだと思いきや、別の方向へ転じてまた感情任せで広がっていった。論理はつかめなかったものの、行間から切実な感情が確かに聞き取れてそれが自分の中にある何かと共振していた。むしろ母親の言葉が不条理になればなるほど、その共振がさらに力強くなり、ラッセルはその感覚を恐れていた。しかしその恐怖から逃げていける場所がなかった。自分の中にある母語から逃げようがない。母親がいなくなってからもその不条理が消えることはなく、いつでも英語の外へ出て、ペルシャ語へ自由に移動できる父親のことをうらやましく思うことがあった。」
著者(小説の中ではラッセルという三人称ではありますが)にとって、母国語である「英語」は混乱した実の母親の「不条理さ」を暗示するものであり、継父にとっての「ペルシャ語」および自分自身がその後習得することになる「日本語」の存在がその不条理さからの「解放区」のような存在として描かれているような気がします。
この母語から抜け出して一人だけで入り込める世界の心地よさが著者の言う「第2言語で書くと摩擦を感じて言葉に対して繊細になれる」ということの真意ではないかと。
いずれにしても、すでに書いた通りこの文章を読んだだけでこれがまさか日本語非ネイティブが書いたと判別できる人は皆無でしょう。
私がこれからどれくらいの英語学習を積み上げれば、著者が彼にとっては外国語である日本語をここまで押し上げたのと同様に私の英語レベルを引き上げることができるのか、まったく想像がつきません。
ただ、それが彼の天賦の才能はもちろんのこと、イラン出身というバックグラウンドを持つ継父によって控えめながらも愛情深く育てられた彼の特別な生い立ちによるところが大きいことは間違いなさそうです。