代表ブログ

こころ

2025年9月7日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回、「先生はえらい」という記事の中で、本書の内容が抽象的で「何を言っているのか分からない」ものでありながら、実はこの「何を言っているのか分からない」ことこそがその本質であるという実に逆説的なお話をしました。

その「分からなさ」をほんの少し分かるようにしてくれたのが、「えらい先生」の実例として出された夏目漱石の小説「こころ」に登場する「先生」ということでした。

この「こころ」ですが、中学校の時に課題図書で読んだことは確かなのですが、全くの義務感だけで読んでいたため(当時から今まで私の小説嫌いは変わっていません)、そのような「先生」が登場していたことすら記憶していないという非常に情けないことに気づかされ、これを機会に改めて読んでみることにしました。

この改めての読書経験を通じて私が特筆すべきは、同じ文学作品でも人生におけるその人が読むタイミングによって全く捉え方というか学びの内容が違ってくるということをはっきり認識できたという事実です。

小説嫌いの私でも、太宰治の「人間失格」を中学生時代に読んだときには、「日常的に道化を演じて同級生を笑わせていた主人公が同級生に道化を見破られた」際の強烈な「恐怖」と「不安」について、かなり共感するものがあり、その一節は今に至るまでかなり鮮明な記憶として残っています。

一方で、先ほど述べたように、この夏目漱石の「こころ」に関しては、中学時代には非常に退屈で何を言いたいのか全く分からない内容だったという印象以外全くもって記憶がなかったのですが、今回読み直した際には、例えば主人公に対する「先生」の次のような鋭い指摘から、太宰の「道化」に関する一節の記憶と同じレベルでその意味を受け取ることができました。

(散歩中に仲睦まじいカップルを見かけた際)「君は今、あの男女を見て冷評(ひやか)しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が混じっていましょう」

これなどは、私は中学生の時分には全くもってその真意をつかむことができませんでした(かどうかの記憶すらないので何とも言えません)が、高校、大学、社会人と年を重ねた今、非常によく理解することができます。

そして、そのような「いやらしさ」は恋愛に限るものではなく、ありとあらゆるものに対する人間の「評価」の根源にあるもので、私たちの「悩み」を作り出すものであるということも。

そういう意味で言えば、この「こころ」を再度読む機会を得られたことは、「先生はえらい」という記事の中で、「その内容が抽象的で『何を言っているのか分からない』ものでありながら、実はこの『何を言っているのか分からない』ことこそがその本質」ということを理解することでもあり、これらの小説さえもが、私にとって「えらい先生」になりうるのだということを少しだけ理解できたような気がするのです。

 

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆