冠詞~日本人にとっての永遠の謎~その1
2015年5月24日 CATEGORY - 日本人と英語
以前に書籍紹介ブログにて「英語の冠詞がわかる本」という書籍についてご紹介しました。
一冊丸ごと、「冠詞」についてじっくり解説している本です。
冠詞ほど、そのエッセンスを覚えても、なかなか個別の事例をそのエッセンスだけでは説明することができず、いつまでたっても自信をもって処理することができないという、不完全燃焼感の強い文法項目はありません。
実際に私は、自身が運営する 文法講座 の中で「定冠詞」と「不定冠詞」の定義を「話しをしている人の頭の中でその名詞のイメージが定まっている(定冠詞)か、定まっていない(不定冠詞)か」であると言う風に「エッセンス」として教えています。
具体的な例としては、「私は”ネズミ”が嫌い。」「ウォルトディズニーは”ネズミ”に命を吹き込んだ。」という二つの文章をあげて、前者の”ネズミ”は、特定のネズミのイメージはないため、「不定冠詞」、後者の”ネズミ”は特定のすなわち「ミッキーマウス」のイメージがあるはずだから「定冠詞」というように教えています。
この説明によって、その時には非常に明確に「冠詞」の理解がなされるのですが、実際に自らが文章を作る段になると、よく分からなくなってしまうものです。これは、そのように教えている私自身も全く同じです。
ですから、私自身、仕事で使う英語、例えば英文パンフレットや正式な英文文書などを作成するときなどは必ず、外国人講師の皆にネイティブチェックをしてもらいます。その結果、下書きは、修正で真っ赤になって戻ってきます。そして、その修正の内容に私自身、納得がいったことはほとんどありません。(笑)
しかも、複数の講師に同じものを頼んでみると、それぞれの講師で違った修正を加えてくることも多々あります。(もちろん、彼らの違いというのは、日本人のレベルとは別次元のものではあるのですが)
そんなわけで、私としては、いつまでたっても、体系的な理解による「上達」の感覚を掴むことができません。つまり、腹落ちすることがないのです。
今回本書を非常に大きな期待をもって読み始めたのですが、結果的には期待外れとなってしまったのは、当たり前かもしれません。
その原因は、「言語は理屈とともに、感情的(感覚的)な存在だ」ということに尽きるのではないかと思います。
なぜなら、本書において紹介されている事例のほとんどのケースが、例外的なケースを含んでおり、また「こうも言うが、こういった場面ではこうも言う可能性がある。」というような結局どっちなのか分からないというものばかりだったからです。
そして、著者の各解説の最後に、「理由としては~ということだと思われる。」という「逃げ口上」が多く見られました。(笑)
言語という、発明者がはっきりしないシステムについては、誰も正解を明示することはできないわけです。そのため、すべての説明が「仮説」でしかないということになるわけで、それはそもそも仕方のないことなのかもしれません。
そう考えることで、ある程度エッセンスを理解したら、あとは深く考えず、使ってしまうしかないかと諦めることにしました。