日本人が英語を間違う理由
2016年8月18日 CATEGORY - 日本人と英語
先日、書籍紹介ブログにて「日本人の英語はなぜ間違うのか?」という本を紹介しました。
日本の大学において日本人に対して英語を教えることを30年近く続けてこられた著者が日本の英語教育の誤りについて「許せない」と思う典型例をいくつもあげてらっしゃるのですが、その中から印象に残った著者の「許せない」エピソードを一つご紹介します。
それは、「教えるべきことを教えない」ことです。
具体的には、日本の中学校では、「仮定法」や「過去完了」を教えません。その理由としては、「日本語の観点からはなくてもよさそうだ」という必要性の問題と「中学生には難しすぎる」という感情的な問題の二つがあげられるようです。
しかし、著者はそのいずれも教育する側の勝手な判断で明らかな誤りだと切って捨てます。
まず、前者は、日本語にはない言語の仕組みだから、英語におけるその部分は無視しようとする姿勢です。ですが、そのような表現の必要性がある以上それを無視するということは明らかな誤りだといえますし、日本語にはない仕組みだからこそ、むしろしっかりと教える必要性があるはずです。
そして、後者ですが、あくまでもこれは教育する側の勝手な思い込みによるものです。著者に言わせれば、数学や理科などでは、これらよりもずっと難しいことを中学で教えるわけで、英語においてのみそのような判断をして排除することは、これも明らかな誤りだと言うわけです。
私も、著者の主張に100%同意します。
特に、英語において時制に関する感覚は、日本語とは比較にならないほど重要視されます。むしろ、その理解こそが英語の本質であると言っても過言ではないほどです。
であるのなら、その本質から逃げることなく正面から取り組むべきだと思います。ただ、私は自ら「二泊三日で中学校三年分の英文法を血肉にする合宿」主宰するなかで、一般的な学校教育に対して一点強く思うことがあります。
それは、一般的な学校での英語教育が、一つ一つの文法項目を別個に独立したものとして教え、しかもそれを少しずつしか進んでいかないために、文法のシステムの全体像がつかめないことから、英文法の理解に挫折することがままあるという問題です。
私たちの講座では、その名の通り、二泊三日という超短期間で、英文法の全体像を叩き込み、それらを有機的に結び付けることで、コミュニケーションを実現するという本来の言語のあるべき姿を踏襲するという形をとるため、その挫折の可能性をほぼゼロにすることができています。
「三年間かかってできないものを、たったの二泊三日でできるようにする、そしてそれを基に英語を使う環境に身をゆだねることによって、英語をコミュニケーションツールとして確実に身に付ける」
この本来当たり前のことを、当たり前にやる私たちが、何か日本における例外のように思われるのは、光栄なことでありますが、少しこそばゆい気持ちにさせられるものです。
今回著者のこの主張に出会うことで、私たちの信念がまた一段階確かなものになった気がします。