日本人と英語

なぜ「欠陥英和辞典」は作られるようになったか

2023年4月26日 CATEGORY - 日本人と英語

#300「欠陥英和辞典の研究」#301「英語辞書大論争!」と研究社と副島隆彦氏の間で繰り広げられた「英和辞書論争」に関する二冊をご紹介するなかで、その実際に問題となった例文をとりあげながらかなり詳細に書きました。

ただ、私にとってはそれ以上に、「研究社」とい超一流の出版社が何十年にもわたって著者が指摘するような「欠陥辞書」を出版し続けてきたその理由にこそ関心があり、皆様の多くも同様だと思いますので、今回はこれら二冊の#関連ブログとして、そこに焦点を当てたいともいます。

この論争はかなり厳しい論調でやり合われており、かなりかみ合わない部分がみられるのですが、その原因のほとんどが「辞書」に関する根本的な考え方の違いにあるように思います。

著者の考えは、出来上がった辞書の内容(例文)が「適切(実際に今英語を使って生活をしている「英語母国語話者(ネイティブスピーカー)」の多くが自然である)」と判断するのでなければ、それは「欠陥辞書」であるというものです。

実際に著者は、日本における新しい辞書編纂方法として有能有識のネイティブスピーカーと日本人の辞書編纂学者が膝を交えて共同で作業する方法を提案しています。

一方で研究社は、「辞書」は辞書編纂の専門家ではない「英語母国語話者(ネイティブスピーカー)」の判断ではなく、文献(主に英米の英英辞典)を参照してそれを根拠にする「典拠参照」という方法によって作られるべきだという考えです。

この違いを前提に著者は、研究社がこのような「欠陥辞書」を作り続けてきた理由がこの「典拠参照絶対主義」であると指摘しています。

以下に本書より該当部分を引用します。

「私は典拠参照がすべていけないと言っているのではない。それはありうる正当な研究の方法の一部をなすものである。しかし、その方法に『固定』されたとたんに、ことがおかしくなってしまうのである。すなわち、典拠参照以外の方法によらない日本の辞書編纂学によって、例文盗用(造文)を続けてきたその結果が、期せずして私による欠陥辞書批判として結実したのである。1942年、開拓社がISED(Idiomatic and Syntactic English Dictionary)という英英辞典を出版した。これは英語学者の長沼直兄氏が主宰し、外国人学者たちとの共同作業によって作られたもので非英語国民向けの世界で初めての辞書となった。その後、ISEDは名称をALD(Advanced Learner’sDictionary)に変更し、その後改訂を重ねながら1963年にOxfordの冠をいただいてOALDとなり、今日に至っている。この英英辞書は日本の辞書作りをする英語学者たちによって研究の対象にされ、実際に研究社自身もこれを最も信頼できる参考資料となったと言っている。ここで例文の大量の盗用問題が発生してしまったのである。開拓社から抗議を受けた研究者はこの辞書を絶版にし、謝罪文を公表するに至る。そして急遽改訂作業を行い、早くも翌年に第二版を発行したのだが、わずか1年で大量の例文を差し替えるという荒業をやってのけた。この事件が日本の英和辞書編纂過程にネガティブな影響を与えることとなる。具体的には、辞書作りの過程で参照した辞書に記載されていた例文を差し替えることが始まった。しかし、まったく新しい例文にするのではなく、特定の文構成の中にある語だけを差し替えて、少し違った文にする。あるいはもともとの例文を短く刈り込んでしまう。または具体的な名詞をitやthemなどの代名詞に置き換えてしまうというものだ。この結果、情報不足で意味不明な文や不自然な文が次々に作られてしまったのである。私は著作権上の問題よりも、こちらのほうが学習者にとっては重要な問題だと考えている。この例文造文作業は英語を学ぶ者のすべてに悪い影響を与え続けているからだ。(一部加筆修正)」

これが「典拠主義」の実態なのだとしたら、上記であげた研究社の「辞書」に関する根本的な考え方には何ら合理性がなく、著者のあげる「辞書編纂の専門家ではない『英語母国語話者(ネイティブスピーカー)』の判断」のほうがよほど説得力があるように思えます。

実際に、#300「欠陥英和辞典の研究」で著者によって「例文がしっかりしており、なかなか大したものだ。この辞書編集に結集した小西友七、飯塚利昭、辻村厚の三氏の良心と才能に感心した。」と評価された「ジーニアス英和辞典」はまさに著者の「辞書」に関する根本的な考え方に沿うものであるでしょうし、愛用者である私の実感もまさにそれをなぞるものでした。