なぜ論文は<です・ます>で書いてはいけないのか?
2022年12月18日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回、前々回と「学術誌」について見てきましたが、今回はその学術誌に載る論文の作法(日本語に限定ですが)について一冊の本をご紹介しながら考えてみたいと思います。
本書のタイトルは「日本語からの哲学」でサブタイトルに「なぜ<です・ます>で論文を書いてはいけないのか?」となっています。
というのも、本書の著者は哲学者であり、自らの講演内容を論文にして学会誌に投稿する際に、その講演の趣を残すためにあえて文末を「ですます体」にして投稿したところ、「条件付き掲載可(その条件が<である体>への変更)」との「査読」の結果を得たことから、このような命題に取り組むことにされたようです。
このブログをお読みいただいている方であれば、私が一貫して<ですます体>を使っていることにお気づきだと思いますが、これにも著者同様、ちょっとした理由があります。
皆さんの中でも同じような経験をされた方もいらっしゃるかもしれませんが、小学生のうちは様々な教科のテストの出題説明文が<ですます体>だったのが、中学に入ったとたんに<である体>と<命令体(せよ)>に変わり、私は子供心に「中学校とはなんと厳しい所なんだ」と強い精神的ショックを受けたことを今でもはっきり覚えています。
特に数学の指示が高圧的に感じ、そこから数学への苦手意識を持つようになってしまいました。
その時、私と同じような犠牲者を出さないように文章を書くときにはできる限り、<です・ます体>でやっていこうと心に決めたというわけです。(笑)
前置きが長くなりましたが、本書におけるこの命題に対する著者の考察を以下まとめてみます。
まず、著者は実際に学会誌や紀要の投稿規定を調べ、「論文は<である体>で書かねばならない」という規範があるかどうかを調べながらもそのような規範を見つけることはできず、次に30冊ほどの論文の書き方指南書(「文章読本」的なものから思考法を説くものまで、小論文用から学術論文用まで、また想定するジャンルも様々)をしらみつぶしに調べ上げたようですが同様に見つけることはできなかったといいます。
とはいえ、現実にはほとんどの論文が<である体>で書かれている事実があるため、「論文は<である体>で書かねばならない」というのはいわゆる「デファクトスタンダード」であると結論付けるしかなかったようです。
そこから、著者独自の<である体>と<です・ます体>という二つの文体の本質的な違いの探求が始まります。
そもそも<である体>と<です・ます体>の最も大きな違いは後者には前者にはない「丁寧さ」を表現するという効果があることです。
この「丁寧さ」を表現する<です・ます体>というのは一般に「敬語」という日本語独自の体系の一つとして理解されています。厳密にいうと、
敬語は「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の三つに分類されます。
「尊敬語」は相手を上げる、「謙譲語」は自分を下げるという形の「上下(尊卑)関係」の表現で、「丁寧語」は上下ではなく、イーブンな「互敬関係」の表現ということになります。
ここに「論文は<である体>で書かねばならない」というのをデファクトスタンダードたらしめた本質的な二つの原因が見て取れます。
まず一つは、論文の文体に敬語という仕組みを組み込むと、学問的議論に「序列」を持ち込むことになり、純粋な学問的討論を妨げてしまう危険性(実はこのことが日本人の議論嫌いの元凶である可能性がある)が生じてしまうので、それを排除するために「序列」とは無関係の<である体>を用いるべきという考えに至ったということ。
そしてもう一つは、<である体>は、一人称が三人称(対象)を「記述する」文体であり、<です・ます体>は、一人称が二人称に「語りかける」文体であるということです。
このことを理解したうえで、「論文」というものの役割を考えるとわかりやすいです。
当然ですが、「論文」は「手紙」とは異なり、具体的に想定される聞き手がいて語り掛けるようなものではなく、不特定の読み手に対して(研究)対象を記述するものです。
このことから、科学(学術)のツールとして言葉を活用するのが「論文」であるならば、その表記方法が<です・ます体>ではなく<である体>とすべきというのは当然の選択であって、それは改めて指南書に規定するようなものではないのかもしれないと思いました。
著者の深い考察に「なるほど」と思いつつも、私のブログは論文ではなく、あくまでも読者の皆さんへの語りかけですので、これからも<です・ます体>で行きたいと思います。