パスカルの「パンセ」を読む
2022年1月26日 CATEGORY - 代表ブログ
前々回、前回に引き続き、「たまたま」という本からテーマをいただいて書きたいと思います。
本書は「ランダムネス(不確かさ)」について様々な事例を紹介し、その奥深さに触れていくものですが、その中でかの有名なフランスが生んだ天才 パスカルについての記述がありました。
パスカルは、本名ブレーズ・パスカルと言い、「哲学者」「自然哲学者」「物理学者」「思想家」「数学者」「キリスト教神学者」「発明家」「実業家」というありとあらゆる肩書とともに世に知られていますが、そのどの分野でも超一流の成果を残しておりながらも、39歳という短命でこの世を去った「早熟の天才」という肩書が最も有名であろうと思われます。
本書では「パスカルの三角形」など、彼の「数学者」としての「確率」の分野における貢献についてももちろん触れていますが、それとともに彼が晩年(と言っても30代後半)に神、宗教、命について自分の考えを書き残した最も有名な著書「パンセ」に関する以下のような説明(要約)がありました。
「あなたは神が存在するのかしないのか分からないことを認め、そこでそのいずれにも50%の確立を割り当てるとしよう。では、敬虔な生活を送るかどうかを決めるとき、あなたはこれらの確率をどのように評価すべきか。もしあなたが敬虔にふるまい、しかも神が存在するとしたら、あなたの利益(永遠の幸せ)は無限である。一方、たとえ神が存在しなくても、あなたの損失、すなわち負の見返り(敬虔という犠牲)は小である。これら可能な利益と損失を評価するには、それぞれの可能な結果の確率にその報酬を掛け、それらを足し合わせ、一種の平均的報酬、期待される報酬をはじき出すことだ、とパスカルは言った。言い換えると、敬虔への見返りの数学的期待値は、無限の半分(神が存在する場合のあなたの利益)から、小さい数の半分(神が存在しない場合のあなたの損失)を差し引いたものになる。パスカルは無限について十分知っていたから、この計算の答えが無限であることを知っていた。だから敬虔への期待される見返りは限りないプラス、それゆえ合理的な人間は神の法則に従うべきであると、パスカルは結論付けた。今日、この議論は<パスカルの賭け>として知られている。」
名前は誰でも知っているけれどパンセの「人間は考える葦である」という言葉以外の内容を知っている人は少ないでしょう。
実は、私もその例外ではありませんで、この説明から興味が湧き、原著の翻訳版を読もうかとも思いましたが、そこは少し日和りまして、「パンセ」の解説本であるNHKの100分de名著シリーズの「パンセ パスカル」でお茶を濁すことにしました。(笑)
ところが、実際に読んでみるとこれが実に分かりやすい。
本書の構成としては、悩める現代人である主人公たちが、生きていく上での様々な悩みに対峙した際、「パンセ」の中にある「珠玉の言葉」を主人公ら自身の頭にぶつけることによって、その悩みの根本を解決していくという内容になっており、おそらく原著の翻訳版を読むよりも何倍もの理解が可能になったように思います。
以下に、本書から最も印象的だった「パンセ」の言葉を引用します。
「好奇心とは、実は虚栄心に他ならない。大抵の場合、人が何かを知りたいと思うのは、後でそのことを誰かに話したいと感じているからなのだ。さもなければ、人は航海などしないだろう。もし、それについて何も話さず、ただ見るという楽しみだけで満足し、そのことを人に伝えるという希望が全くないものだったとしたら。」
なぜ、私が本を読むことだけに満足せず、このようにブログでその読書体験を報告せずにはいられないのか、パスカルはその理由を完全に見抜いていたことになります。
このように、370年も前にパスカルによって書き溜められた随筆集は、私を含む現代人の典型的な悩みの根本原因について非常に的確な考察をしており、またそれによって私たちの悩みを見事に解決してくれるのです。