欧米人には「妬み嫉み」がないのか
2024年4月3日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
昨日(2024年3月29日)の読売新聞夕刊の「よみうり寸評」に次のような文章を見つけました。
「自分を同期生と比べて羨んだり嘆いたりするのは、欧米先進国には見られない日本人の習性だという(歳時記考:岩波書店)」
思わず「それ本当?」と声に出しそうになり、この中で紹介されている「歳時記考」という本を反射的にアマゾンで買ってしまいました。
「歳時記」とは中国古来の用語で、主に俳諧・俳句の季語を集めて分類し、季語ごとに解説と例句を加えた書物のことを指しますが、本書は、長田弘(詩人)、鶴見俊輔(哲学者)、なだいなだ(精神科医・作家)、山田慶兒(科学史家)の四賢人がそれぞれの人生体験を背景に、歳時記にかこつけて四季の移り変わりをネタに、豊かな知識と奇抜な発想で語り合う一大座談会の内容をまとめたものです。
以下に「よみうり寸評」で取り上げられた部分をできる限り抜粋引用します。
◆鶴見:日本の場合は十歳なら十歳のレベルで固く団結する。18で大学に入るところを一年浪人してから入ると、それが屈辱感になることがありますね。日本の教育は単に年齢一年刻みの制度になってしまって、教育は分かるまでやればいいんだということから離れてしまっている。分かることが目的だということは全然どこかへ放り出されていますね。
◆長田:卒業というのが人の略歴としてどこへも必ずついて回るでしょう。社会的な戸籍というか本籍みたいに。だけど、学歴社会というけれども、学歴というのは何を保証するんだろう。日本でいう学歴はそこで何を学んだかということと関係ないし、また実際それが問われることはない。いわば身許証明なんで、仮に大学を中退すると、高卒とみなされる。学歴というのは修学の証明じゃなくて、卒業の証明なんですね。
◆鶴見:日本での卒業というのは、人に服従する能力、忍耐する能力を持っているという、その証明だと思う。四年なら四年、学校の机にずっと座り続けて単位を修得したということの証明でしょうね。だから会社には入れても、机に向かって座り続けて忍耐し、服従するであろうという予測を可能にする。
◆なだ:一般に日本の社会では何期生とか、一線に並べて何年かたって誰が上に行っているの、下に行っているのという測り方をする。年功序列だけじゃなくて、そういう競争をさせるのが好きな社会なのかな?
◆鶴見:社会学でいう準拠集団というか、自分を何と比べるかというと、同期生で比べる。何年卒業組というのは、日本ではほとんど何歳ということと同じ何だけれど、同じ年齢のレベルで比べてはやきもちをやいたり、俺はダメだと思って腐る。その比べ方は、日本がそのグループであると言われている負うべき先進国にはない風習で、そこが面白いところだな。
◆山田:僕が大学に入って習った物理の先生によれば、大物理学者の伝記を調べてみると圧倒的に二番が多い。一番で卒業した人で大物理学者になった人はいないというんですよ。一番というのはまさに服従の能力を完璧に発揮して、先生の言うことを完璧に理解して使いこなせる人でしょう。それに比べて素質はあるんだけれども、ちょっと反抗するなんて言うのはせいぜい二番くらいだという。教育というのはそういうところがありますね。
冒頭で、思わず「それ本当?」と声に出しそうになったと書いたように、アメリカに留学してそれなりに欧米人とも付き合った経験から、欧米先進国の人たちだって他人を羨む気持ちがないはずはないというのが正直なところでした。
ただ、実際に本書を読んで、次のことを思い出し、鶴見氏がそう断じた真意を理解することができた気がしました。
それは、アメリカには「先輩・同期・後輩」という言葉が存在しないという事実です。
特に上級生や下級生のことをなんて呼んだらいいか一瞬戸惑う経験をしたのは私だけではないはず。(結局は普通に名前で呼べばいいのですが、ランゲッジ・ヴィレッジでも初日に目上の人を名前で呼ぶことに戸惑われている方は少なくありません。)
でも、その言葉が存在しないという事実こそが実は「正常」なことであり、一年先か一年後かに生まれただけで、それによって「権威」が生じる日本の社会が「異常」だということを認識するべきなのです。
しかし、私を含めそのような経験を外国でして日本に帰国したとしても、それを「異常」だと主張して、「先輩・同期・後輩」の枠を破壊しようとすることができる人間はほとんどいません。
おそらくそれができる人の数は、本書の中で山田慶兒氏が指摘した「大物理学者になった二番の人」の数とそう違わないくらいの少なさだと思われます。(笑)
もちろん、欧米にだって「先輩・同期・後輩」の枠以外の「業界」「階層」「地域」などの枠は存在しているわけで、その中であらゆることのレベルを比べてはやきもちをやいたり、俺はダメだと思って腐ることもあるはずです。(というか実際にありました。)
しかし、日本には「業界」「階層」「地域」などの水平方向の枠の数だけでなく、それぞれの枠の中に「先輩・同期・後輩」という垂直方向の枠のバリエーションが加わるという、「妬み嫉みの大交差点」が常に存在している社会だということで、その割合は比べ物にならないほど大きいということは間違いなさそうです。
今回本書を読むことで、様々なことからできる限り「枠」を取り払い、自分自身の選択に基づいてやりたいことをやっていれば、「妬み嫉み」からそれなりに自由でいられると気づくことができたことが非常に大きな収穫でした。