絶対優位と比較優位
2020年10月25日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回の記事では、ポール・クルーグマン教授の「良い経済学悪い経済学」をご紹介しながら、多くの素人経済学者が「国際競争力」という言葉を使って、正当な経済学の常識を無視した形で企業と国家を同一視し、貿易という本来は恐れる必要のないいたって有効な手段を「脅威」だと扇動することで国家の政策までも動かしてしまう由々しきことが起こっているという話をしました。
著者の主張は、貿易とは世界経済を「ゼロサムゲーム」ではなく「プラスサムゲーム」にすることができる活動であって、今まで貧しかった第三世界の国々の経済が強くなることが、決して今まで豊かだった第一世界の経済に悪影響を与えるものではないことを「正当な経済学」を引用して力説しています。
その際に、著者が古くても確実に「正当な経済理論」として取り上げたのが、イギリスの経済学者デヴィッド・リカードの「絶対優位と比較優位」の議論でした。
今回は、その二つの概念についてまとめたいと思います。
「貿易における絶対優位とは、ある国が外国よりもある分野において生産性が高い場合をいい、比較優位とは、ある国が外国に比べてある分野(A)で10倍得意であり、別の分野(B)で2倍得意である場合、その国はAの分野で比較優位性を持っており、Bの分野で比較劣位を持っているという。例えば、日本はベトナムに対してほとんどの財において絶対優位を持っているが、ベトナムは服などの労働集約的な財に比較優位性を持っている。仮に服の分野においても日本の絶対優位があったとしてもだ。つまり、日本は服の分野においてもベトナムより生産性を高く維持できたとしても、車の生産に特化した方が全体として効果的ということだ。」
このことは、次のように考えると分かりやすいかもしれません。
かつてアメリカメジャーリーグのボストンレッドソックスのベーブルースは、ピッチャーとしても打者としてのチームのどの選手よりも優秀でした。すなわち、どのポジションでも絶対優位性を持っていたということです。
しかし、チームの経営陣はとはいえベーブルースは打者としてのほうが比較優位性を持っていることに気づいたため、彼を打者に専念させることでチームとしても個人としても圧倒的な記録を打ち立てさせることに成功した。
そして、その他の選手たちも自分たちの強みを活かして活躍の場を確保できたということです。
これと同じことが国家が何を輸出するべきかの議論に当てはまるということです。
その上で、リカードは次のことを説明することで自由貿易の重要性を説いたのです。
「貿易相手国と比べてすべての分野で生産性が劣っている国は生産性ではなく、賃金の低さで競争しなければならないが、それで悲惨な状況になるわけではない。それどころか、貿易によって『利益』さえ得られる。そのポイントは、限られた市場をめぐる企業間の競争とは異なり、貿易がプラスサムゲームであることで『競争』の概念になじまないからだ。」
もちろん、絶対的な豊かさという意味では生産性が高い方がよいに決まっています。
しかし、それは貿易をするしないにかかわらずその国の生産性の問題であって、「貿易」によって生産性の低さがもたらされるわけではありません。
いやむしろ、「貿易」はその損害を確実に和らげてくれるものであるということです。
このリカードの理論を理解せずに「国際競争」の問題をやり玉に挙げる多くの素人経済学者に対して、著者は次のように厳しい指摘をしています。
「もしそれでも『国際競争』の問題を『貿易』の問題に組み込もうとするのであれば、その人は『既得権益』(それまでその国が力を持っていた分野)を守るという部分最適の議論に誘導しようとしている可能性が高いと考えるべきだ。」
「貿易」を悪者にすることなく、生産性を高める努力を継続するという姿勢を国際社会を構成する国々が各々とり続けるべきだということを示唆する「経済学」がまさに「良い経済学」ということなのだということでしょう。