「銀の匙」を読んでみた
2017年12月15日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
前回の記事では、灘校の名物国語教師、橋本先生の著書を取り上げ、先生の「教科書を使わず、中学の3年間をかけて中勘助の「銀の匙」を1冊読み上げる」という伝説の授業について書きました。
中勘助の「銀の匙」については、中学時代の課題図書にも指定されて強制的に読まされた記憶がありますが、当時全く興味を持つことがなく、どんな内容であったかも全く覚えていませんでした。
ところが、橋本先生の著書を読み、あの灘中学で3年もかけて読み上げる小説とはどのようなものだったかということが気になり、読み返してみることにしました。
私は、本を読むときほとんどの場合、まず、あとがきや解説を読んでから本文を読んでいくことにしているのですが、本書の解説は中勘助と同時代を生きた哲学者和辻哲郎によって書かれていました。
和辻は、本書を評して次のように解説しています。
「この作品の価値を最初に認めたのは夏目漱石である。彼は、この作品が子供の世界の描写として未曾有のものであること、またその描写がきれいで細かいこと、文章に非常な彫琢があるに関わらず不思議なほど真実を傷つけていないこと、文章の響きが良いことなどを指摘して称賛した。当時この作品を漱石ほどに高く評価した人は多くはなかったであろう。しかし、今にして思えば漱石の作品鑑識眼はまことに透徹していたのである。」
和辻哲郎や夏目漱石をして、ここまで言わしめる文章とはどのようなものだろうかと、私の好奇心は読む前にマックスにまで高まりましたが、残念ながら私にはその鑑識眼はなく、作品をそのような観点から楽しむことはできませんでした。(笑)
ただ、作品そのものを芸術として楽しむことができなくても、橋本先生がこの本を「伝説の国語の授業」の題材にした理由はよく分かりました。
というのも、本書を読む進めようとすると、一パラグラフに少なくとも数個はそのまま素通りできないような知らない、もしくは理解の薄い自分ではしっかり説明できない日本語の語彙が含まれているのです。
まさに、前回の記事で書いたような「横道に逸れる」必要性が満載の文章なのです。
それら一つ一つについて、とどまって調べ、理解をしていくという「精読」をしていくとすれば、中学の3年間は決して長すぎるものではないと感じましたし、それらについて理解をしながら本書を完読したならば、どれほどの「国語力」が身につくのだろうかと思ったのです。
しかも、ウィキペディアを使用して簡単な答えを見つけるような「横道への逸れ方」ではなく、クラスの全員と橋本先生とで納得のいくまで調べ上げ、議論することによってたどり着く理解の領域とはまさに、「学ぶ」ことの本質何だろうなと感じたのです。
私は、「銀の匙」を物語として楽しむことはできませんでしたが、世界の理解の「ネタ本」としての価値はなんとなく理解することができたことに満足したのでした。