
アメリカの「スノビズム」について
2025年9月21日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。
外国語(英語)を通して私たちの母語である日本語について考えるというテーマで書かれた片岡義男氏の「日本語で生きるとは」の内容が私個人的に非常にヒットしまして、似たようなテーマで書かれたものを探していたところ、あの村上春樹氏が自身のプリンストン大学留学時代に書かれたエッセイ「やがて哀しき外国語」がそれかもしれないと思い、読んでみることにしました。
いままで村上春樹氏に関しては「私が小説を敬遠する理由が分かりました」や「村上春樹作品にみる仮定法」などの記事を書いてきましたが、彼の作品には興味はあっても、小説嫌いの私には敷居が高くて読めていませんでしたが、これは「エッセイ」、しかもタイトルの中に「外国語」というキーワードがあるため、なんとかその敷居を跨ぐことができたのでした。
実際に読んでみると、そもそも本書を読むためのモチベーションとなった外国語(英語)を通して私たちの母語である日本語について考えるというテーマかもしれないという思惑は外れ、本書は著者が1990年代初頭のアメリカ(といってもプリンストンという独特の土地を中心とする)が日本人として自分にどのように映ったかを自由に綴ったものでありました。
そこには現代にも関連するアメリカの課題などが多く浮き彫りにされていたので、今回はその課題の中からアメリカの上層社会にはびこる「スノビズム」について取り上げたいともいます。
以下該当部分を引用します。
「日本では新聞を購読しない僕もプリンストンでは二つ新聞をとっている。一つは、ローカルペーパーでうちの周辺で起こった出来事をカバーしているような『トレントン・タイムズ』という新聞。もう一つは、毎日読んでいたら肩が凝って仕方がないような取り澄ました『NYタイムズ』みたいな新聞を週末だけとっている。でも僕の知っているプリンストン大学の関係者は、皆毎日『NYタイムズ』をとっている。『トレントン・タイムズ』をとっているような人はいないし、僕がとっているというと、あれっというような奇妙な顔をする。そして『NYタイムズ』を毎日はとっていないと言うと、もっと変な顔をする。特に、後者を週末だけとって、毎日前者を読んでいるなどというのは、姿勢としてコレクト(正しきこと)ではないとみなされる。同じことはビールについても言える。僕の見たところでは、プリンストン大学の関係者は大体において輸入ビールを好んで飲むようである。ハイネケンか、ギネスか、ベックか、そのあたりを飲んでおけば『正しきこと』とみなされる。しかし、バドワイザー、ミラー、シュリッツあたりを飲んでいると、やはり怪訝な顔をされることが多いようである。要するにバドとかミラーとかは主として労働者階級向けのものであって、大学人、学究の徒というのはもっとクラッシーでインタレクチュアルなビールを飲まなくてはならないのだ、というか飲むことをきたされているのである。かくかように、新聞からビールの銘柄に至るまで、ここでは何がコレクトで何がインコレクトかという区分がかなり明確である。」
このような姿勢(紳士気取りの、お高くとまった、鼻持ちならない、きざな、きざっぽい)のことを「スノビー(snobby)」という言葉で表現するのですが、このような形容詞を私はアメリカで生活して初めて知りました。
でも私が通っていたのはコミュニティカレッジといういわゆる地域に根差した短大のようなところでしたので、実際にそのような態度の人に接したことはありませんでしたが、自分の身近な人がこの形容詞を使って彼らをディするようなところを目撃したことは何度かありましたので、雰囲気はなんとなく分かるといったところです。
そして著者は以下のように続けます。
「アメリカ(少なくとも東部の有名大学)では、バドワイザーが好きでレーガンのファンで、スティーブン・キングは全部読んでいるような先生がいたら(実例がないのであくまで想像するしかないのだが)多分周りの人間からはあまり相手にされなくなってしまうのではないだろうか。そうなると現実的に大学で生き残っていくことは、よほど優れた実績を上げていない限り、難しくなるだろう。『つまりね、アメリカの大学人というのはいわば社会的に孤立した存在なんだよ。』とあるアメリカ人が教えてくれた。彼の言うことが100%正しいかどうかは知らないけれど、そういう部分があることは確かだと思う。」
私は、この著者の指摘を受けて、「あっ、なるほど!」と気づいてしまいました。
現在のトランプ政権の誕生、そしてアメリカの分断の原因は実はこのころから確実に蓄積されてきたのだということにです。
当時のそのような大学の中だけに収まっていた「スノビズム」が、彼らが社会に出て社会で活躍することで生じた莫大な資金でロビー活動を行ったり、マスメディアを広告で支配したりして、人口構成とは無関係に経済と政治を支配していき、確かにそれでアメリカという国は経済的に大成功を収めましたが、同時に行き過ぎた格差の拡大を生み出しました。
しかも「最近」まではそれが「当たり前」で「コレクト」なことだと多くの人は思い込み、誰もそこにツッコミを入れることはなかった(できなかった)。
しかし、インターネットの発達、特にSNSの普及によって、彼らとは別の人たち(しかも人口的には多数=いわゆるトランプを支持する人たち)の政治的意見の反映が可能となり、今の分断の政治状況を作り出してしまうことになったということです。
私は、このスノビズム的、民主党的(これが正しい表現かは分かりませんが)、異常なまでの能力至上主義(弱肉強食)的な価値観があまりにも大きくなりすぎたがゆえに、SNSによって民主主義のカウンター攻撃を受けることになってしまったのではないかと、この著者の指摘を受けて思ったのです。
著者は本書の中でこの「スノビズム」は、早晩なくなる運命にあると予想されていたのですが、とんでもない!、逆にそれが大学だけにとどまらず、経済社会の中にまで広まってしまうことになったというのは、非常に興味深いことでした。
(まさに「逆タイムマシン的」です。)
何事も中庸を心がけることの大切さを思い知らされた気がします。









