日本語特有の「受身」表現
2016年8月10日 CATEGORY - 日本人と英語
前回は、「日本人の論理構造」にて紹介されている例を三つほど取り上げて、我々日本人の精神の特殊性を自覚することで、英語という日本語とは大きく異なる論理を持つ言語を学ぶにあたってのヒントとしました。
今回は、その学習にあたっての困難性を具体的にあげてその違いを深く考えてみたいと思います。
それは「受動態」、すなわち受身表現です。
ランゲッジ・ヴィレッジでは、「二泊三日で中三文法を血肉にする合宿」でこの受動態を教えるとき、次のような説明をしています。
「受身表現とは、SVOの文のO(目的語)をS(主語)にしてSVCで表現したものです。ですから、元々の文のV(動詞)は必ず他動詞をとりますので、自動詞の文章を受身にすることは絶対にできません。」
この説明は、至極当たり前の話なのですが、「初めて聞いた」と感動してくださる受講者の方が多いです。
しかし、よく考えてみると、この説明では理解できない次のようなものが日本語にはあることに気が付く受講者の方もいらっしゃいます。
「雨に降られてこまった。」「子供に先に死なれてしまった。」「電車に行かれてしまって遅刻した。」
「降る」、「死ぬ」、「行く」これらの動詞は、典型的な自動詞です。にもかからわず、上記の文章は全て受身の形になっていますので、先ほどの私の説明ではどうにも説明がつきません。
このことについて、日本語と英語の論理の違いから、このことについての説明を加えている部分が本書にはあったのです。
前回の三つの日本語表現のうちの一つ、「~られる」という「自発」表現の説明のところで、この表現はあくまでも自らの判断でその行為をしたにもかかわらず、それを客観的に表現することで、自らの責任をある程度放棄するような予防線的感情の表れだと書きました。
それに関連して以下のようにつづけて指摘されていました。
「これら(自動詞なのに受身表現されているもの)は、自分の力では防ぎようのない、招かざる被害の場合に、なんとか責任を放棄したい感情を「られる」の形で表現したのであろう。人事であれ、自然現象であれ、自己に深刻な影響を与える現象が、自己の意思希望とは全く関係なく発生する。つまり、『成り行き』としての出来事として意識されるのである。」
ですから、これらは、受身表現ではなく、自発表現と考えた方がいいというわけです。
いままでも、なんとなく著者の指摘と同じようなことを感じていましたが、なかなかしっかりとした論理的な説明ができずに、「ここが、非論理的な日本語と論理的な英語の違いなのです。」というような形でお茶を濁しておりました。
今回、この指摘に出会うことによって、文法講座の説明をまた一つ深めることができるようになりました。