日本人と英語

続・カタカナ英語への警鐘

2024年5月10日 CATEGORY - 日本人と英語

前回までの4回で、書籍紹介ブログにてご紹介した「英語達人列伝Ⅱ #313」で取り上げられている8名の英語達人の中から特にここでご紹介しておく必要があると私が感じた4名を厳選して順番にご紹介してきましたが、最終回の今回は、本書の「あとがき」で著者が指摘されていた重要な問題点について書きたいと思います。

それは、英語学習を妨げることにつながる「カタカナ英語」についてです。

本書の「あとがき」においては、英語達人たちが従来の英語学習においてただ愚直に正攻法を貫き、英語母国語話者をもしのぐ素晴らしい英語の使い手となったという事実を改めて確認しつつ、現代の英語学習環境が一見すると当時とはくらべものにならないほど恵まれたものであるにもかかわらず、彼らに比肩するような英語の使い手が見当たらないことについての言及がありました。

その原因として、著者と鳥飼久美子氏の共著である#245「迷える英語好きたちへ」を引き合いに出しつつ、実は彼らの時代よりも現代のほうが、英語学習をマイナスからスタートしなければならないという意味で、むしろ難しい時代になっている可能性があるとして、その具体例として「カタカナ英語の氾濫」について取り上げたことを指摘しています。

私もそのことについて「オーバーシュートって何?」という記事を書いて具体例をご紹介しました。

今回は、#245では取り上げられていなかった「カタカナ英語」の指摘があり、それが日本人にとって非常に根深い問題だと感がさせられましたので以下にご紹介することにします。

それは「チャレンジ」という単語です。以下、該当部分を引用します。

「日本人の多くが、和製英語になってしまっていることに気づかずに使っているカタカナ英語に『チャレンジ』がある。『挑戦』と同義と誤解して『チャレンジする』という表現を使うものだから、『チャレンジ』は『する』ものだと思っている。だが、本来の意味から言えば、『チャレンジ』とは、あちら側に立ちはだかっているものだ。受験生が難関大学の入試に向かって行うことが『チャレンジ』なのではなく、難関大学の入試が受験生にとっての『チャレンジ』なのである。また、次々に新しいことに挑むような人や物を『チャレンジング』と(誤って)表現する ことがあるようだが、動詞の『チャレンジ』もあちら側からこちらに挑みかかってくる動きを表す。『チャレンジングな人だ』とほめたつもりでも、それを英語で言った場合、文脈によっては『厄介な人』と受け取られかねない。 challenging school は新しいことに取り組む学校ではなく、教員にとって手強い『教育困難校』である。このあたりカタカナ英語と英語教育・学習の関係がおわかりいただけるかと思う。大学で英作文の授業を担当すると、カタカナ英語をそのまま英文のなかで用いる学生が多いことに驚かされる。先の『チャレンジ』について言えば、他動詞 challenge の目的語として行為 を表す to 不定詞や挑戦する内容を表す名詞を置いたりする。辞書さえ引いてもらえば、そのような用法がないことはすぐに分かるはずである。」

私がアメリカでの留学期間中に自分の脳からわざわざ「アンインストール」した上で再度「インストール」し直すこととなった「カタカナ英語」の中で一・二を争うくらいに印象的だったのがこの「チャレンジ」であることを本書の指摘ではっきり思い出しました。

ネイティブスピーカーの使用の仕方と日本人である自分の使用の仕方にかなり早い段階で「違い」があることに何となく気づくのですが、では具体的に何が違うのかを理解し、「アンインストール」した上で再度「インストール」し直すというところまで行くのにはかなりの時間がかかったことを明確に覚えています。

英語の生態系の中で生きている単語を、勝手にその文脈から切り離して日本語化してしてしまうという日本語の「カタカナ英語」という習慣は、英語だけでなく日本語の生態系に対する大いなる「チャレンジ」でもあると思います。

ああ、これは正しい使い方ですね。(笑)

 

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