英語教育大論争 ~平泉・渡部論争の解釈~
2014年5月11日 CATEGORY - 日本人と英語
書籍紹介コーナーで紹介しました「英語教育大論争 #35」は、ご紹介の通り、日本の英語教育を議論する上で無視することのできない重要な論争を一冊にまとめた大変貴重なものです。
ですので、この論争がどのようなものであったのか、そしてその論争の中身が現在の英語教育にどのような影響を及ぼしているのかを整理要約して皆様とシェアしたいと思います。
この論争は昭和49年4月18日に当時自民党の参議院議員であった平泉渉氏によって自民党の政務調査会に提出された「外国語教育の現状と改革の方向」と題する試案に対して、その一年後の昭和50年に上智大学の渡部昇一教授が文芸春秋の4月号で「亡国の『英語教育改革試案』」を掲載したことによって始まりました。
以下が平泉氏の試案の概要です。
1. 義務教育段階における英語教育の内容の簡素化
2. 義務教育段階における世界の文化に関する常識の教授
2. 高校英語を「選択教科」化
3. 生徒が選択した場合にはその内容の高度化
4. 大学入試英語の廃止
要するに平泉氏は、高校進学率90%を超という状況の中で大学入試を最終目的としてその全員を対象に、あまりに膨大な記憶の作業である英語学習を課すことはあまりに非効率だと考えたのです。
そうではなくて、義務教育段階で世界の文化を教えることで自然体でその文化の前提となっている英語への積極的態度を醸成し、その結果、高校で英語を選択した者に対しては徹底して高度な授業を展開しようとしました。
なお、大学受験からの科目の排除の理由については詳しい記述がありません。しかし、この大学入試科目廃止議論については私(秋山)自身も主張しているものです。その理由が同様なものかどうかは定かではありませんが、参考までに こちら をご覧ください。
これに対して渡部氏の反論の概要は以下の通りです。
1. 学校英語教育は「英語を話す」力を顕在化させていないが,「読み書き」に関しては十分な能力を育成しているという意味で「潜在力」を育成しているという意味で評価すべきだという主張
2. 外国語教育は、かつての漢文研究のように「知的訓練」であり国民全員に義務的に課すだけの価値が十分にあるという主張
3. 大学入試に関して英語はその膨大な記憶の作業という性格上一夜漬けが効かない教科であるために大学入試科目としては数学と並んで理想的であり外すことはあり得ないという主張
4. 全体の5%だけに限定してしまうことはフェアではない、よって平泉試案は亡国の案だという主張
渡部氏の主張は、学校教育の主たる目的は、「潜在力」育成であり、すぐに実用に資するような「顕在力」でのみその成果を評価してはならないと反論しています。
そして「潜在力」とは、「時間をかければ、こみ入った英文でも正確に読め、辞書を引き引きでも、構造のしっかりした英文を書ける」能力ことです。
なお、「顕在力」とは、さまざまなさまざまな文書をすらすら読むことができたり、口頭でネイティブとコミュニケーションをスムーズにとることができる能力、いわゆる「使える英語」ということです。
そして、「潜在力」を学校英語教育で養成しておけば、いざ英語環境にさらされれば、すぐに「顕在力」が身に付くので「顕在力」を過度に強調する必要はないとしています。
また、「知的訓練」という観点から見れば、外国語教育には国民に共通して提供すべき価値のあるものであるとしています。
以上がこの長い論争の要約です。
実際に私共ランゲッジ・ヴィレッジでは、日本の英語教育をしっかり受けられた方ならば、1~2週間の国内留学で徹底的にアウトプット教育を施せば、非常に高い確率で「使える英語」にまでつなげられるという意味で渡部氏の主張と同様の主張をしてきています。
また、私も自身の米国留学で潜在能力が顕在力に変わる体験をしていますので、日本の英語教育のすばらしい部分についての渡部氏の主張には共感できる部分があります。
しかも、昨今の英語学習の本質論から外れたオーラルコミュニケーション重視、文法軽視の傾向を考えるとなおのことこの主張は貴重なものだと思います。
このことがこの論争が、英語教育史上最も重要な論争と言われるゆえんだと思います。
これほどまでに思慮に満ちた英語教育への問題認識がなされ、両方の立場(平泉:経済界および社会一般の要請からの立場 渡部:学校教育関係者および語学教育の専門家の立場)からその本質的な意見が搾り出されているわけですから。
しかしながら、論争全体を通してみてみると私は平泉氏の主張をより評価すべきだと考えます。
その理由は二点あります。
まず一点目、これは論争がかみ合っていない部分が多々あり、その原因が平泉氏の主張を渡部氏が誤解した上で議論を展開している部分が見受けらる点です。
例えば、5%に限定するのはフェアではないとしていますが、実は平泉氏の主張を注意深く読めば5%に限定するとは一言もおっしゃっていません。
志望者に限定して(機会は提供しつつ)教育をすることで結果的に全体の5%が「使える英語」をマスターすることになると「予測」しているだけです。
ですから、当然その志望者の数は社会のニーズによっても変わってくるでしょうし、それを排除限定するものではないということです。
また、平泉氏の主張は昨今のオーラルコミュニケーション重視、文法軽視の傾向などとは一線を画し、渡部氏の主張する「潜在能力」を否定などしていません。
この潜在能力を顕在化させるにはどうしたらよいかという主張をしており、そのことは至極真っ当な主張だと私は思います。
つまり、平泉氏は教育行政という事業の「結果」を出すために、実際的に限定された教育資源の効率化を図ることで、最適配分の解を見つけようとしているわけです。
その内容や方向性は、渡部氏の指摘する英語教育の本質からなんらずれているものではないと考えます。
二点目は渡部氏が社会の需要というものに対してあまりに無頓着ではないかということです。
英語教育は渡部氏がおっしゃるように「知的訓練」の側面を持つかもしれません。
しかし、同時に「国際語」という歴としたコミュニケーションツールという側面も持っています。
そして、この後者の比重は時代を追うにつれ、どんどん大きくなってきています。その中で、前者の側面だけを捉えてこのような主張を続けることはあまりに社会のニーズに対して配慮が欠けすぎていると思うのです。
渡部氏ほどの賢明な学者が、平泉氏の文章を「誤解」するようなことはあり得ないと思います。
にもかかわらず、氏が「誤解」を前提に論を展開していくことに私には非常に違和感を覚えました。
そして、これは最終的には英語教育の専門家としての性がそうさせるのではないかと思うに至りました。
つまり、渡部氏は学校英語教育界の代弁者としての立場に自ら意識するしないにかかわらず立ってしまっているのではないかということです。
これは、渡部氏に限らず多くの英語教育学者に共通する姿勢のように見受けられます。
要するに、これからも学校英語を「無駄であるけど無駄ではない」ものにしておくのか、それとも時代の要請に合わせて完全に「無駄でない」ものにする方法を設計するのかという問題なので、一般受けするのは当然にして「無駄でない」ものにするものに決まっているわけです。
渡部氏をはじめとする学校教育陣営はどの時代でもいつもこの視点が決定的に欠けているのです。
この「その点についてはいいこと言っているのに、その上にあと少し載せようとしない」点がこの議論をいつも堂々巡りなものにする原因です。
とはいえ、このような論争を経て現在の英語教育につながるわけですが、先ほどもでましたが「オーラルコミュニケーション重視」「文法軽視」「ALTによる英会話の機会の拡充」など一般的に見ると「平泉氏寄り」の方向にシフトしていっているようにも見えます。
しかし、それは平泉氏が思い描いた形とはまったく異なった結果をもたらしていると言わざるを得ないと思います。
平泉氏の試案の本質はあくまでも「志望者としてのモチベーション」と「教育資源の最適配分と集中による効率化」です。
これが、英語教育の本質的理解とあいまって効果を生じるであろうと考え、設計されたはずです。
それが現実には平泉氏の試案の本質とはまったく異なり、限られた教育資源を満遍なく平均的に配分することにより、英語教育の本質から外れた手法が「コミュニケーション重視」の名の下にとられるようになってしまっています。
このような充実した論争が40年も前にあったのにもかかわらず、我々日本人はその資産をまったく活用していないことを非常に残念に思っています。ただ、現在活用していないことも事実ではありますが、処方箋はすでに存在しているということもまた事実です。
ですから、私たちはその処方箋の中身を民間の力で実践しているのです。