日本人と英語

なぜ学校教育における「英語会話」は失敗し続けるのか

2023年3月12日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語と日本人」からテーマをいただいて書きていますが、第六回目のテーマは「学校教育における英会話教育」です。

第四回目の「全く同じ議論をゼロから繰り返す日本人」で見たように、「日本人と英語」の議論については、すでに明治時代に論点が出尽くしており、それ以降、新しい論点がほとんど見いだせない中でも、その時々の世論に流される形で同じような「議論」を繰り返した上で「政策的」な決定をしてきました。

その結果、現時点では「コミュニケーション重視」が金科玉条のごとくで、新学習指導要領は高校に次いで中学でも「授業は英語で行うことを基本とする」と定めてしまいました。

生活のすべてを英語オンリーにすることで圧倒的な「英語を使う」環境を提供するのが私たちランゲッジ・ヴィレッジの仕事ですので、「このような『コミュニケーション重視』の行政方針は好ましいものでしょう?」という質問を頻繁に受けるのですが、私はいつもその質問に力を込めて「NO」と答えるようにしています。

なぜなら、週にせいぜい4~5回のしかも30~40人クラス授業での「英語での英語授業」は、ほとんどの高校で機能しないかもしくはしたとしても非常に効果の低い授業になってしまうのが現実で、中学ではそもそも授業自体成立しようもないことは明らかだからです。

実際に、本書には次のような記載があります。

「1970年には高校の学習指導要領の改訂によって新科目として『英語会話』が加えられ、その目標には『英語を通して、外国の人々の生活やものの見方を理解しようとし、進んで交流しようとする態度を養う』と書かれていたが、結果は惨敗。『英会話を教えられる教師がどこにいるんだ?』との陰口もたたかれたほど、当時の英語教師は会話を教えたがらなかったし、大学受験とは無関係のため不人気で、次の1978年の学習指導要領改訂で『英語会話』は削除されてしまった。一般市民の英会話願望と学校教育での英語学習とは区別して考える必要があるのだ。」

また、もう少し時代をさかのぼって1948年頃のミッション系の西南女学院中学・高校で6年間学んだ女学生の回想と、それに関する著者の指摘内容を引用します。

まずは学生の回想。

「中学では、英語の洪水に浸かった授業を三年間受けると、英語に対する耳も慣れてくる。私は英語らしい発音を取得するとともに英語を日本語に訳さずに、そのままの形で理解しようとする態度と、その基礎力を身に着けることができた。ここまではよかった。問題はそのあとだ。ところが高校に入学するとことはそう簡単ではなかった。英文読解の授業では、かなり内容の濃いものを読んでいたので、英会話の授業が何とも味気なく感じてしまう。英語の聞き取りにも慣れた知的好奇心旺盛な高校生にとって、テキストなしで簡単な英文を繰り返したり、質問に答えるタイプの授業は退屈である。私一人が不満を抱いているのかと思ったが、そうではない、級友も同意見である。」

そして著者の指摘。

「ここには、今日のコミュニケーション重視の英語教育を考える上で重要なことが書かれている。精神年齢が高くなると内容が貧弱な英会話では知的好奇心が満たされず、退屈してしまう一方で、国際政治を論じるような内容の濃い会話をしようとすると、今度は英語力がついていかない。精神年齢の高さと英語力の低さ。このギャップをどう埋めるかは英語教育の難問だ。」

著者のこの指摘こそが、そのまま今回のテーマへの答えになるのだと思います。

結局、大切なのは、第五回「続・英語との付き合い方」で見たように、日本がEFLの国であるという理解のもとに、このトレードオフの関係にある「精神年齢の高さと英語力の低さ」をどうバランスさせるかという視点です。

それをバランスさせるには、人材、時間、そしてコストという非常に難しい問題を解決する必要があるわけで、そのことに目をつぶった状態で世論に押されて「エイやっ」で突っ込んでしまっては、また同じ轍を踏むだけです。

第四回目の「全く同じ議論をゼロから繰り返す日本人」で見たように、

「ずっと後になって、何らかのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まると、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。」

を絶対に繰り返すべきではありません。

 

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