代表ブログ

テキヤの掟

2023年5月28日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

夏と言えば「夏祭り」、祭りと言えば「出店」、出店と言えば「テキヤさん」という連想が成り立ちます。

そして、この「テキヤさん」ですが、彼らはいわゆる「ヤクザ屋さん」だとよく言われています。

実際に、ウィキペディアにも暴力団の定義として「博徒、的屋等組織又は集団の威力を背景に、集団的に又は常習的に暴力的不法行為を行うおそれがある組織」と書かれています。

しかし、実際にお祭りで彼らと接しても、いまだかつて怖い思いをしたことは一度もありませんし、むしろ気のいい「オジちゃん」「おニイちゃん」といったイメージを持たれているのは私だけではないはずです。

また、私が地元のボランティア団体に所属していた時、富士市の夏祭りのゴミ処理の責任者をしていたことがあったのですが、あまりのゴミの多さとボランティアの人数が全く合わないことから、すべてを我々ボランティアが処理するのではなく、各テキヤさんにもゴミ処理の責任を持たせることを市の担当者に提案したことがあるのですが、「それをお願いしてしまうと次年度から参加してくれるテキヤさんが少なくなってしまう可能性があるから、なんとかボランティアの皆さんに頑張っていただきたいです。」とやんわり断られてしまったことがあります。

それくらい自治体も彼らの存在を大切にしていたことが印象的でした。

確かに、商店街などの有志が出す出店とテキヤさんが出す出店ではお祭りの雰囲気の盛り上がりが全く違う気がして、自治体が彼らを優遇したくなる気持ちも分からなくもなく、その時もなんだかんだで最終的に説得させられてしまいました。

このように彼らに対して我々が実際に感じる感覚と半ば公に言われる上記のようなイメージとの間のギャップはいったいどうして生じているのだろうかとずっと疑問に思ってきました。

そんな疑問を解消してくれるかもしれない一冊を見つけましたのでご紹介します。

タイトルは「テキヤの掟」で著者の廣末登氏は実際にテキヤ業界での経験がある「アウトサイダー」の研究者です。

以下にこの疑問を要約してくれている部分を引用します。

「まず、法律的には『的屋 てきや、香具師 やし・こうぐし)=ヤクザ(暴力団)』とされているという事実があり、特に『暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(暴対法)』が施行された1992年以降、例えばテキヤを辞めて商売替えして建設業やっていた者に対しても『テキヤ(=暴力団)』を辞めてから5年たっていないこと(5年ルール)を理由に建設業の許可を取消すケースなどがみられる。」

こうなると、非合法な行為など行わず「テキヤ」として真面目に商売をしていたとしても、今現在だけでなく将来にわたっても生活の安全が保障されなくなってしまうために、多くの人がテキヤを辞めざるを得なくなり、またそもそもテキヤになろうとする人がいなくなり、最終的にはテキヤ業界が消滅してあのお祭りの雰囲気が日本からなくなってしまいます。

そもそも、テキヤ業界に身を置いたことのある著者はその経験から次のようにヤクザとテキヤは基本的に異なると言います。

「実際に普段はテキヤの看板で、問題が起きたらヤクザの看板を使うケースや、テキヤから始まった団体が『指定暴力団』に指定されているケースも確かにあるが、ほとんどのテキヤはモノを売るという実態のある商売でしか金を儲けない。恐れるのは暴対法ではなく食品衛生法であり、保健所に頭が上がらない。かなりしんどい肉体労働に幹部であっても従事する。いままで覚せい剤などの違法薬物に関わった人間を見たことがない。何より、テキヤとヤクザでは祭神が違う。テキヤの盃事の儀式には中国の伝説の皇帝であり、民に農業や養蚕、医学を教え、市場を開いて商業を教示したと言われる『神農』の軸を掲げる一方で、ヤクザの場合は、『天照大神』を中央に掲げ、『八幡神』と『春日大社』を左右に掲げるという点でそもそも異なる。(一部加筆修正)」

ではなぜ、「テキヤ=ヤクザ」という認識を日本社会が持つようになったのでしょうか。そのことが分かる部分を本書より以下に引用します。

「テキヤもヤクザもそれぞれの神事(盃事)を作法通りに行う。テキヤは、寺社仏閣を仕事場としているため神事はお家芸であるが、ヤクザの側にはその神事を作法通りにできる人間が豊富にいるわけではないため、テキヤがヤクザに依頼されて媒酌人を務めることがある。(一部加筆修正)」

このようなことから「テキヤ」と「ヤクザ」には浅からぬ関係があり、両者ともに外形的に一般社会とはかけ離れた異様な雰囲気を醸し出していることは否定できません。

しかし、このことは伝統的にそのような関係があったということに過ぎず、そのことをもって両者を同一視するのは、少々飛躍が過ぎるような気がします。少なくとも「悪意のないアウトサイダー」と「悪意のあるアウトサイダー」という区別はあってしかるべきではないでしょうか。

もちろん、「暴対法」をザル法にしてはならないという警察の強い意志とそれによる社会全体のメリットも十分に理解できます。

ただ一方で、そのあまりの厳密さによって、あのお祭りの雰囲気を作り出す「悪意のないアウトサイダー」としてのテキヤ文化が消滅してしまうことの是非についても、日本国民として一度しっかり考えるべきかと思います。

冒頭で書いたテキヤさんを大切にする富士市が今後も態度を変えないように祈るばかりです。

 

◆この記事をチェックした方はこれらの記事もチェックしています◆