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本物の国語指導

2018年8月10日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

以前に「言葉を教えることは人を育てること」という記事において、日本の国語教育の向上に貢献し、「授業の神様」といわれた大村はま氏についてご紹介しましたが、その時に彼女についてもっと知りたいという衝動にかられ、彼女の人生を描いた「評伝 大村はま」を読んでみました。

私は、日本人の教育においては、国語力の向上がすべての教科に優先すると常日頃から感じています。

また、そうであるならば、その国語指導とはどうあるべきなのかということについても真剣に考えなければならないと思っています。

にもかかわらず、ほとんどの日本人は国語の授業で何が行われていたのか、何を目的に行われていたのかを記憶もしていないし理解していないと思います。

それは、教えを受ける側だけでなく、教える側の国語教師も同じようなものではないかと思います。

日本社会全体が国語という教科がどの教科よりも優先され、それを担当する教師は最も優秀で尊敬されるべきだという認識を持つようにならなければ、小学生という人生のうちで最も大切な時間を思考の基礎である日本語ではなく、道具に過ぎない英語に使うというおかしな政策を何も躊躇しないで実行してしまうというようなことが続いていってしまうと思います。

前回、私が彼女のことをもっと知りたいと思わされたのは、彼女の以下の言葉に衝撃を受けたことが理由でした。

「言葉の教育とは人の教育に直結する、だからそのことを人生の仕事にするためには、そのことをまず自覚して覚悟を決めなければならない。」

「その覚悟ができない人は、決して言葉の教育に携わってはいけない。」

まさに、彼女は国語の教師になるということの責任を理解し、それを全うすることを覚悟して国語教師となったということが分かります。

本書には、では覚悟ある国語教師が行うべき国語指導とはどのようなものなのかという実例が書かれていましたので、ご紹介したいと思います。

少し長いですが、国語の指導の本質が見事に書かれていますのでそのまま引用します。

「先生の朱はいわゆる批評ではないですね。『いい』とか『悪い』とか『上手』とか『下手』とか、そういうことではないと思います。例えば、書けていないところに対して、そこに書かれるといいと思われたことを、言葉で『もう少し足りない』とか、そういう風におっしゃらないで、その足りないところを補うといいような、あるいは入れるといいと気づかせるような入れるとよいということを考えさせるような、入れる力をつけられるようなことを自分で書いてくださるわけですね。そうすると私たちは、そこを読んでいきますと、自分がそういう風に書いたような気がして、そこの文章が豊かになってしまう。それを見ながら、本当にそうだと思います。そう書けばよかったとまでは思わない、それは子供ですから。自然に書けばよかったことが分かって、なんか自分が書いたような錯覚が起こってきて、そこのところが光って見えるのですね。ほめられたような気がするのです。こういう風にと、豊かになったのを見せてくださると、一遍に体得できるのではないか。ですからこれは優れた指導だと思います。」

こんな高度な指導は誰もができるものではない。でも、国語の指導はこうでなければならない。

現実と理想のギャップは大きいですが、でも本来国語教育というのはこれほどのものなのだということを理解しておく必要があるのではないでしょうか。

子供への就寝前の本の読み聞かせもそうですが、本当に素晴らしい指導というのは、継続することが非常に難しいと思います。

だからこそ、「そのことをまず自覚して覚悟を決めなければならない。」のだと思います。

 

 

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