2040 教育のミライ
2022年10月19日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
先日、「学校現場におけるDXの混乱」にて日本の学校教育行政の無責任さについて記事を書いたことで日本の教育の将来について真剣に考えてみたいと思い、「2040教育のミライ」という本を読みました。
著者は、ソニーグループ初の教育事業会社「ソニー・グローバルエデュケーション」会長の礒津政明氏です。
当然ですが、教育のミライを考える上でまず必要なのはその教育によってどのような人材を育てたいのかという具体的なイメージです。
著者はそのイメージを「目の前にある(もしくはまだ見えていない)問題の解決策を自分の頭で考え(または自分で問題を発見し)、解決のための手段としてのクリエイティビティを有していて、なおかつ実際に実行する主体性を持った人材」だとしています。
しかしながら、今の日本の教育には先日見た教育行政の無責任さだけでなく、もっと根の深い一筋縄ではいかない問題が存在しています。
本書の中でその最たるものとして次のような指摘がありました。
「私が小中学校における一番の問題だと思うのは、学校の意義が『社会性や協調性を身に着けるための場』になっていて、『生徒の個性を尊重し、個性にあったサポートをする』ことがないがしろにされてしまっていることです。」
しかも、それは学校だけの問題ではないと次のように続けます。
「私を含めた親の根本的な『罪状』は、『教育における昭和的な価値観をアップデートできていないこと』です。周りがやっているからという理由で子供の考えもほとんど聞かないまま今までの常識である偏差値教育を押し付けてしまう親が多くいます。つまり学校同様、子供の性格に合った教育方針を立てることができていないのです。」
学校(行政)、親とくれば今度は社会ということになりますが、次の指摘は非常に恐ろしいと思いました。
「90年代後半にインターネットと携帯電話が登場した現代社会では、子供たちはいろいろな情報メディアやゲームに触れすぎて、脳の『報酬系』がさらなる刺激を求め、本人の意志とは無関係にゲームに向かうようになり、その回路に異常が生じている可能性があります。」
このことについてはかなり前の「スティーブジョブズはわが子をアナログで育てた」や「スマホ脳」の記事でも確認しています。
ただ、そうはいっても学校行政も何もしていないわけではなく、この問題を何とか解決しようとして実際に行動を起こしてもいます。
その一つに「小1プロブレム(都市部と地方の情報格差による小学校一年生の学習態度や能力のばらつきが大きい問題)」の解消」という試みがあったらしいのですが、これに対する著者の評価が以下の通り痛烈なものでした。
「2021年夏、この問題の解消のために『文科省が就学前の5歳児に対する教育プログラムを検討している』というネットニュースを見た時、私は我が目を疑いました。『まだ文科省は昭和の価値観から抜け出せていないのか、、、』と時代に逆行する政策にに絶望感を感じずにはいられませんでした。今日本の学校教育に求められている喫緊の課題は『子供はこうあるべき』という画一的な指導ではなく、子供たち一人一人の個性や特性に合った学びを提供することです。そもそも子供の学習態度や能力にばらつきがあるのは当然で、ましてや7歳児となればなおさらのことです。それが『個性』であり『多様性のある社会』とはそのような多様な個性が尊重される社会のことを言うのです。」
つまり、本来であれば「個性」として大切に育むためにはどうしたらいいのかと頭をひねるべきところを、これは問題(障害)であり、しかも「これだけやってもまだ駄目ならもっとやる」という「分量の問題」だと心の底から学校行政は信じ切ってしまっているのです。
このエピソードはこの問題が「ベクトルの問題」だということを明確にしていると思います。そして、これは私に言わせれば「小学校英語の導入」についても全く同じことです。
このような絶望的な状況の中で、ではどうしたらいいのか、著者は次のように言います。
「やがて私は『日本の教育を変えるには政府が本腰を入れるのを待つのではなく、民間と親ができることから変えていくしかない』と本気で考えるようになりました。公立校が苦手とすることは、民間のサービスやプロダクトでカバーする。学校教育でおかしいと思うことがあれば、親が責任をもって声を上げ、子供に寄り添い、改善のための行動を起こす。そして、新しい教育観と行動力を持つ政治家を一人でも多く議会に送り込む。こうした下からの地道な突き上げを根気強く続けていけば、そのうちその突き上げが運動となり、運動が民意となり、国を動かせると私は信じています。」
何とも気の遠くなるような話なのですが、教育というものはそれくらい深遠なものなのだということでしょう。