日本人と英語

外国語の流暢さと知性について

2019年1月23日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語とは何か」よりテーマをいただいて書いていこうと思いますが、第二回目の今回のテーマは、「外国語の流暢さと知性」についてです。

多くの日本人は、英語を流暢に話すことができないとき、「恥ずかしい」という感情を持ちます。

では、なぜ母国語でもない英語を流暢に話せないと「恥ずかしい」と思ってしまうのでしょうか。

それは、母国語ではないにしても、英語が言語である以上、言葉を上手に操ることができないことは「知性」や「能力」の評価の対象となってしまうという心理によるものかもしれません。

そして、この心理は日本語という母語にどっぶりつかることが当たり前で、外国語を使用するということから民族として長い間離れていた日本人ならではのものかもしれません。

しかし、それでは、英語が日本人にとっての母国語ではない以上、いつまでたっても自分以外の誰かの流暢さと比較して、相対的に「恥ずかしい」感情を排除することができなくなってしまいます。

私自身、長い間この感情と付き合ってきたわけですが、この感覚を完全に排除できた瞬間を明確に覚えています。

その瞬間はフランス語学留学時代にありました。

フランス滞在期間当初、フランス語は私にとって第二外国語ですので、もちろん日本語や英語と比べて流暢に話せず、「恥ずかしい」という感情をより多く感じがちになりました。

ですので、フランス語ではとてもかなわない英語圏以外からの留学生とフランス語で会話中、話に詰まると英語に切り替えさせてもらうことが多々ありました。

私はすでにアメリカ留学を経験していましたので、私の英語は彼らよりも流暢であることが多く、その時に自分自身が実際の自分の知性よりも極端に低く見られて「恥ずかしい」という思いをすることを避けることができたのです。

この時、私はこの「相対的に恥ずかしい感情」というもの、すなわち実際の知性と使用言語の流暢さとのギャップによる相手の受け取り方を斟酌することとの無意味さを明確に理解することができたのです。

本書には、このことについて次のような記述があります。

「言葉を流ちょうに話すかどうかは、その人の知性や品格とあまり関係がありません。単にその言葉を学習した期間が長いか短いか、若い時に始めたか、それとも年をとってから始めたか、その人にとってその言葉をしゃべることが普段必要であるかどうかなどを示すだけであります。ですから、人間観察にたけた人なら、訥々としゃべる外国人とあっても、言ってる内容からどんな人かを想像します。これに対して、子供はそういう斟酌をしません。大人でも浅はかな人は同じです。」

つまり、その人がたまたまその時使用している外国語の流暢さによってその人の知性を図ろうとすることこそ、「恥ずかしい」ことなわけで、そのことを一度理解してしまえば、もはや心配となるのは、自分自身の実際の「知性」そのもののみということになります。(笑)

まずは、外国語学習を開始する前にこのことを理解することが重要だと思います。