日本人と英語

大学の「グローバル化」の問題点

2017年7月2日 CATEGORY - 日本人と英語

前回に引き続き、「「グローバル人材育成」の英語教育を問う」に関連して、今回は日本の大学の「グローバル化」について考えてみたいと思います。

現在、日本の大学では急速に「グローバル化」が進行していますが、本書はこの動きについても「ちょっと待った」と警鐘を鳴らしています。

最近になって、日本の大学といっても名前が挙がってくるのは東京大学ですが、その世界ランキングが落ち込みが激しいということが問題視されています。

特にシンガポール国立大学や香港大学と比べて、相対的な落ち込みが大きいということが、長い間、アジアナンバーワンを誇ってきた東京大学としてはプライドが大いに傷つけられているようで、その分グローバル化(英語化)に邁進するモチベーションとなっているようです。

しかし、この考え方は非常に危険です。

その理由については、少し前の記事「なぜ日本人は毎年ノーベル賞をとれるのか」でも以下のように説明しています。

「日本が、他のアジア諸国と異なり母語である日本語で科学や技術を勉強することができる唯一のアジア国家であること。このことが毎年日本人がノーベル賞をとれる秘密。科学の分野の勉強をする場合に、母語で深く学ぶことが可能であるためにオリジナリティのあるアイデアにつながるのではないか。したがって、母語でしっかりとしたロジックを教える、客観的な文章を理解し、書けるようにする教育が重要だ。(一部加筆修正)」

日本の大学が相対的に世界ランキングを落としているのは、世界ランキングの評価基準が、欧米の基準でなされているからです。

当然、彼らの評価は、英語によってなされた研究成果やそれに基づいて英語で書かれた論文によってなされるわけで、日本語によって行われた研究や日本語の論文については、当然にして評価しにくいものとなります。

そのため、シンガポールや香港の大学が国家の経済成長とともに、研究成果を英語の論文によって発表する数が増えればそのランキングは相対的に高まるのは自然です。

それに焦りを感じて、日本の大学が自らの母国語である日本語で深い思考に基づいた研究ができるのにも関わらず、その幸せを自ら放棄して、借り物の言語である英語でそれを行おうとするグローバル化が行われれば、その結果は非常に残念なものとならざるを得ないでしょう。

ここでも、「グローバル化」ではなく「国際化」を目指さなければ、逆に日本の大学の存在感はますます落ちて行ってしまうということを明確に認識させられてしまいました。

それでもなお、このような形で日本をグローバル化させたいと望むのであれば、もはや母国語としての日本語を完全に捨て、英語を思考の基礎とすることを前提とした教育に切り替えるという大手術を行う覚悟をする必要があります。

しかし、その覚悟をするには今まで積み上げてきた日本語による財産があまりにも大きすぎるし、またその覚悟ができないのにもかかわらず、現在目指しているような中途半端なグローバル化(英語化)を進めるのであれば、思考の基礎が英語となっている欧米と勝負することなど絶対にできないということを自ら確定させる愚行だと言わざるを得ません。

ですから、日本人がグローバル化するか否かを考えるということは、この覚悟ができるかどうかを自問自答することだということをしっかり認識する必要があります。

そうなると、日本人にとっては、英語は所詮、日本語による深い思考によって得られた研究結果を世界に伝える伝達ツールに過ぎないことを肝に銘じるべきだと思います。