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「論理」とは「文学」とは

2020年12月6日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前回に引き続き「ことばの危機」について考えてみたいと思います。

そのテーマは、「論理」とは何か、そして「文学」とは何かです。

というのも、前回の記事で、大学入試改革に連動して新学習指導要領が変更され、従来の「現代文」が「論理国語」と「文学国語」に分けられ、生徒はそのいずれかを選択する仕組みになったことを問題視する本書の趣旨をご紹介しました。

そこで、私が個人的に考える「国語」の教科のあり方についても触れましたが、そこでふと、私自身が国語を12年以上学んだのにこの二つの定義すらはっきりと分からないことに気づいてしまいました。

本書では、この二つについてきっちりとした定義をされていましたので、自分自身の知識の整理を兼ね、ここでご紹介したいと思います。

まずは「論理」について。

「そもそも『論理』と訳される『ロジック』という言葉は、ギリシア語の『ロギケー』を語源としています。これは元来『ロゴスのテクネ―』つまり、言葉の技術を意味します。ですから、ある意味では言葉に関わる以上は全て論理だということになります。論理にはいろいろな種類がありますが、それらをきちんと身に着けるというのは全ての基本です。別に論理という言い方をしなくても、小説であろうが詩であろうが、広い意味では、言葉をきちんと理解して使っていくことは全て論理です。では、狭い意味での論理は何かといえば、これが哲学の扱う論理学です。大学で論理学という授業をとると数式がたくさん出てくることに驚かれますが、これを形式論理学と呼び実際には数学に近いものです。これを使えば、人間の頭の中ではきちんと考えきれないこと、混乱して明瞭になっていない事柄を、非常に高度な形で証明することができます。ただし、日常言語の世界は論理学では解決できない部分の方がはるかに大きいことを忘れてはなりません。ですから今後、高等学校で論理国語を苦労して勉強したが、結局社会では全く実用性がなかったという事態になると国語自体が不要だと思われてしまうことは十分に考えられます。」

続いて「文学」について。

「そもそも『文学』という語は日本語の歴史とともになる古い言葉です。中国でそうであったように、本来は文字で書かれた学問の総称として用いられていました。西洋でも、リタラチャーという語は、書物に書かれた学問、教養のすべてを意味していました。それが18世紀以降、次第に狭義の言語芸術に限定されて使われるようになったいきさつがあります。日本でも、『文学』がリタラチャーの訳語として、つまり狭義の言語芸術としての用法が一般化するのはようやく明治の後半になってからのことで、長い歴史で見るとむしろ特殊な使い方なのです。その意味でも、今回の新学習指導要領の『文学』概念は、いささか時代遅れの感が否めない。すでに歴史的評価の定まった芸術品として、小説や詩歌を『博物館の陳列ケース』に並べるような発想になってしまってはいないでしょうか。」

この二つの定義を読んで、もう一度この二つの概念について考えてみて導き出される結論としては、「言葉に関わる以上は全て論理であり文学である」ということになってしまいます。

そのことからも、大学の文学部の文学は18世紀よりも前の広義の文学のなかの「人」文学を指していると考えればスッキリします。

つまりは、「論理」と「文学」を分けることは時代遅れどころか、論理的でもないし文学的でもない理屈に合わないことになるわけですから。

そうなると、私がそのような背景知識を持たずに、従来の「現代文」が「論理国語」と「文学国語」とに分けられたこと自体について好意的に評価したことなど、東京大学の5教授の皆さんには認められるべくもないということでしょう。

その勉強不足を反省した上で、それでもやはり、私はこの二つの切り分けをきっかけにして、教える側と教わる側の両方が、国語という教科が「実用性」と「芸術品」の両方を担っていることを理解することで学習の「対象化」がきっちりと図られることになることを願いたいと思います。

 

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