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「新しい英語教育」の進捗状況

2019年8月19日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

ここのところ、大学入試共通試験における英語の民間試験に関する混乱ぶりをその関係主体である「試験提供機関」と「受験生側(具体的には高校校長協会)」そして、「制度設計者(文科省)」それぞれの立場をとらえたニュースを取り上げることで見てきました。

制度導入に関してこれだけの混乱が生じているのですが、しかし制度自体は2020年度より開始されることは決定しているわけで、高等学校における教育はそのことを前提として行われています。

その「新しい英語教育」の進捗に関する記事が、先日(2019年8月4日)の日経電子版の「社説」にありましたのでご紹介します。

「文部科学省は4月に実施した「全国学力・学習状況調査」の結果を公表した。90万人を超す中学3年生を対象に初めて実施した英語では、「書く」「話す」の技能に課題があることが分かった。日本の英語教育は、コミュニケーション能力の向上を目指し、小学校からの早期教育にカジを切った。しかし、相手に意思を伝える力の育成が十分な成果を生んだとは言いがたい結果だ。誤答の原因などを分析し、授業の改善に役立ててほしい。英語の全国の平均正答率は「読む」が56.2%、「聞く」が68.3%、「書く」が46.4%、「話す」が30.8%だった。「書く」では、女性の居住地を尋ねた設問の正答率が30%台だった。誤答の多くは、中1レベルの動詞の活用を理解していないケースが占めた。文法の知識不足だ。2つの文をつなぐ簡単な接続詞の選択でも誤答が目立った。英語以前に文章を論理的にとらえる読解力に問題がある可能性がある。「書く」「話す」の誤答の原因は、表現すべき内容は分かったが、英語が思い浮かばなかったのか。それとも設問が理解できず、表現すべき内容自体が思いつかなかったのか。こうしたデータを分析し、現在のカリキュラムや授業の在り方が正しいのかを、実証的に問い直す必要がある。」

私は、この「新しい英語教育」への移行に対して今まで非常に厳しい意見をこのブログにて展開してきました。

それは、学校教育においては、「できること」と「できないこと」の区別を明確にして、「できること」に限られた資源を投入するべきところ、実際には「できないこと」に時間をかけることが行われることで、「できること」が中途半端にされていることが明確だからです。

この社説の中には、私(だけでなく英語教育の本質を理解している有識者の皆さん)が懸念していたことが見事に課題としてあぶりだされていました。

「誤答の多くは、中1レベルの動詞の活用を理解していないケースが占めた。文法の知識不足だ。」

「新しい英語教育」のポイントを明示するものとして「四技能」という言葉が独り歩きしています。

四技能とは、「読む」「聞く」「書く」「話す」の四つの技能のことを言います。そして、私が問題だと思っているのは、「四技能」と書かれることによって、これらがあたかも独立した技能だと誤解されることです。

これらの技能は、それぞれ密接に関連しているのは当たり前です。

私は、「聞く」という技能については日本では環境が限られてしまうのでこの考え方に当てはめにくいのですが、即時対応能力である「話す」ことができれば、それを時間をかけてやるだけなので「書く」ことができるはず、そして、書くことができれば、当然「読む」ことができるというのは当たり前だと考えます。

ですから、「読む」が56.2%、「書く」が46.4%、「話す」が30.8%という今回公表された結果は当たり前のことなのです。

逆に、これらがそれぞれ同じような数値であったら、それは問題の質の違いということになるわけです。そして、今回「聞く」が68.3%という数値であったことに私は大いに感心しています。(問題の質を疑ってしまいますが。)

冒頭に学校教育で「できること」と「できないこと」と言いましたが、一クラス3~40名という多人数方式で、しかも週3~4時間という仕組みでは、「できること」は、「読む」「聞く」までの対応がせいぜいで、よほどいい教育をしても「書く」までが限界であるのは明らかです。

「書く」力は、当然のことながら「読む」力を大前提としていますし、「話す」の力とは、「書く」(時間をかけて表現する)ことと同じ内容を一瞬で行うことなのです。

であれば、「書く」ことと「話す」ことまでを学習の範囲に含める「新しい英語学習」の議論の中で、「誤答の多くは、中1レベルの動詞の活用を理解していないケースが占めた。文法の知識不足だ。」などという指摘が出ていること自体あり得ないことなのです。

この結果は、英語という言語の習得の過程についての本質をつかめば、当然の結果にすぎません。それなのにもかかわらず、制度は動き始め、そして実際の開始前から混乱を来たしているのです。

教育は「国家百年の大計」たらねばなりません。

ならば、少なくとも専門家の大勢が納得する「大計」を作っていただきたいです。