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I love you. の訳し方

2020年12月9日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前々回と前回に引き続き「ことばの危機」について考えてみたいと思いますが、今回のテーマは「翻訳」です。

以前、このブログにて「ノーベル文学賞はノーベル翻訳賞か?」という記事を書きましたが、本書においてこのテーマにぴったりな言及がありましたのでご紹介したいと思います。

これは、東京大学の5人の教授のうちの一人である沼野教授が2019年度のセンター試験に使用された自らの文章の一部です。

「英語のI love you.に直接対応するような表現は日本語ではまだ定着していないのではないだろうか。そういうことはあまりはっきりと言わないのがやはり日本語的なのであって、本当は言わないことをそれらしく言い換えなければならないのだから、翻訳家はつらい。ともかく、そのように言い換えが上手に行われている訳を世間は『こなれている』として高く評価するのだが、厳密に言って本当にこれは翻訳なのだろうか。翻訳というよりは、これはむしろ翻訳を回避する技術なのかもしれない。」

そうして、その具体例として以下を挙げています。

「『僕は君にぞっこんなんだ』と『私は君を愛している』では全然違う。話し言葉として圧倒的に自然なのは前者であって(ただしちょっと古臭いが)、実際の会話で後者のような言い方をする人は日本人ではまずいないであろう。しかし、それでは後者が間違いかというと、もちろんそう決めつけるわけにもいかない。ある意味では後者の方が原文の構造に忠実なだけに正しいとさえいえるのかもしれないのだから。しかし、正しいか、正しくないかということは、厳密に言えばそもそも正確な翻訳とは何かという言語哲学の問題に行き着くのであり、多少不正確であっても、自然であればその方がいい、というのが一般的な受け止め方ではないか。(一部加筆修正)」

このテーマについては、私はだいぶ前になりますが書籍紹介ブログで「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」という本を取り上げたのを思い出しました。

この本になぞらえて言えば、「僕は君にぞっこんなんだ」は不実な美女であり、「私は君を愛している」は貞淑な醜女となります。

しかし、著者は次のような指摘もしています。

「ドストエフスキーの『罪と罰』の中に、『楕円形の丸いテーブル』があると書かれているんですね。まことしやかに語り継がれている伝説によれば、編集者がこれはどう考えても書き間違いではないかと思って、『丸い』はとったほうがいいのではと聞いたというのですが、ドストエフスキーはしばし考えた上で『いや、このままにしよう』と答えたとか。いずれにせよ、『楕円形の丸いテーブル』は『罪と罰』に残っています。ところが、大部分の日本の読者はこの古典的名作にそんな変な表現があるということを知りません。なぜなら、歴代の翻訳家たちが、論理的にこれはあり得ないと思って、皆、翻訳の際に『丸い』を勝手に削ってしまったからです。」

私は、このブログでも何度も「翻訳本」は苦手だと言ってきました。

その理由はまさに、それらの多くが「貞淑な醜女(ブス)」だから、読みにくくて仕方がないからです。

しかしながら、今回沼野教授からこの指摘を受け、「翻訳」が、翻訳家がぎりぎりまで「不実な美女」と「貞淑な醜女」のと間で揺れ動いた結果であり、翻訳それ自体が原書とは別個の人格を持ちうるものなのだという見方に気づかされた気がしました。

その意味で言えば、「ノーベル文学賞はノーベル翻訳賞か?」というのはまさにその通りだと思えてきます。

 

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