多様性を認めることの困難さ
2021年9月13日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
昨今、「多様性」を認める社会への変革が当たり前のように議論されていますが、その議論が白熱すればするほど私はその難しさに直面し、この概念自体に潜む自己矛盾性を感じることが多くなってきました。
まさにその難しさを感じさせられる特集記事をニュースピックスで見つけましたのでご紹介します。
タイトルは「米で急増。職場の『ワクチン義務化』がもたらす混乱」です。
米国は、日本に比べればずっと「多様性」を尊重する社会を構成していると多くの人が思っているでしょう。
しかし、この記事を読む限りにおいては、「ワクチン接種派」と「ワクチン懐疑派」の分断の深さ、それから、「ワクチン接種派」による「ワクチン懐疑派」の非容認度の高さは日本の比ではないように思えます。
また、世界は宗教やイデオロギーの違いによる戦争を繰り返しているというのも事実で、「多様性」の重要性が叫ばれる現在もそれは減るどころが増え続けているように見えます。
例えば、私たち西側諸国の人間は、アフガニスタンのタリバンが女性の権利を著しく抑圧するイスラム原理主義を基本とする国づくりをしようとすることに、「多様性」の観点から、ものすごく大きな違和感を持ちます。
タリバンの考え方を「悪」だと決めつけ、彼らを私たちの考え方に改めさせる何らかの行動に出るとしたら、それは明らかに「多様性」の観点から問題が出てくるわけです。
実際に、米国は多様性を認めるべきだという強い「正義感」をもって今まで何度も他国への干渉をし、戦争を引き起こしてきました。
自らの正義を主張し、相手の考えを改めさせるという行動は、その動機が「多様性」の維持にあったとしても、「多様性」の破壊につながるわけで、自己矛盾以外の何物でもありません。
世界中に様々な文化やそれを前提とした考え方があり、それを前提していない人間が「違和感」を持つことは当然のことです。
しかし、お互いの文化を理解する努力をし、「違和感」を払拭すること、それができないのであれば、その「違和感」を自分の心の中にしまっておくということこそが、実は「多様性」の本質なのではないか。
オリンピック組織委員会の会長であった森さんは、「女性蔑視発言」をしたことで、「多様性」の観点から圧倒的な批判にさらされ、辞任に追い込まれました。
彼の発言は今の日本の社会が向かっている方向性とは圧倒的にギャップがあったから辞任せざるを得なかったし、それは当然のことでしょう。
しかし、この辞任が「多様性」の観点からなされたとするならそれは大いなる矛盾としか言いようがないと思います。
また、今回ご紹介した記事にもあるように、コロナショックという大きな危機の前に、「ワクチン接種派」が「ワクチン懐疑派」を批判し、それによって社会の分断が起きるのだとしたら、「多様性」の概念は危機の前では本当に脆弱でむなしいものだと私は思います。
「自分は自分、他人は他人。」
どれだけ自分と他人との間に考え方のギャップがあったとしても、またどれだけ大きな危機が襲ってこようとしても、このことを貫くことができるのか。
多様性とは「自分は自分、他人は他人。」の姿勢を貫く意思そのものだと思います。