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「豊作貧乏」になる理由

2020年10月5日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前々回、前回に引き続いて今回も「人新世の資本論」からテーマをいただいて書きます。

そのテーマは「富と財の違い」です。

突然ですが、私は昔から「豊作貧乏」という言葉の意味をどうしても理解できませんでした。

農作物や水産物が豊作豊漁の場合、それらを一定数廃棄することがあります。その理由を一般的には、「生産過剰で価格が下落するのを防ぐため」ということで説明されます。

ところが、私はそれならば、廃棄するのではなく、「神の見えざる手」による需給調整によって自動的に行き着く「適正価格」で売ればいいわけで、なぜそれをしないのかと納得がいかなかったからです。

その答えにつながるヒントが本書に書かれていたので、その部分を以下に引用します。

「『公富』とは万人にとっての富のことである。一方、『私財』は私個人だけにとっての富のことである。両者の違いは『希少性』の有無であり、多くの人々が必要としている『公富』を解体し、意図的に希少にすることで『私財』は増えていく。つまり、希少性の増大が『私財』を増やしていく。例えば、水は潤沢に存在していることが人々にとっては望ましいし、必要でもある。そのような状態では水は無償である。一方、何らかの方法で水の希少性を生み出すことができれば水を商品化して価格を付けられるようになる。この時、人々が自由に利用できる無償の『公富』は消える。だが、水をペットボトルに詰めて売ることで、金もうけができるようになり『私財』は増える。」

そして著者はこうも続けます。

「マルクスの用語を使えば、『富』とは『使用価値』のことである。これは空気や水などがもつ人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。それに対して、『財産』は貨幣で測られる。それは商品の『価値』の合計である。『価値』は市場経済においてしか存在しない。資本主義においては商品の『価値』の論理が支配的になっていく。その結果、『使用価値』は『価値』を実現するための手段に貶められていく。『使用価値』の生産とそれによる人間の欲求の充足は、資本主義以前の社会においては、経済活動の目的そのものであったにもかかわらず。そして、『価値』増殖のために犠牲にされ、破壊されていく。」

そう言えば、私たちはいつからか水道から非常に安く手に入る「水」を飲むことを躊躇し、その何百倍ものコストを負担して商品としての「水」を飲むようになりました。

かつてはほとんどタダ同然で飲めていた500ミリリットルの水にノート一冊と同じ価格がつけられることが知らない間に当たり前になってしまっているわけです。

ここのところ話題になっている自治体の水道事業の民営化の議論もこの「使用価値」の「価値」化に関わるものだと思います。

私たちは、「富と財の違い」をしっかりと理解して、富、すなわちマルクスが言うところの「使用価値」の部分をできるだけ多く確保して、市場経済においてしか存在しない財の部分についてはできるだけ厳選するという姿勢を身に着ける必要があるのではないでしょうか。

ここで冒頭の「豊作貧乏」の話に戻りますが、この考え方を理解すると、たくさん生産されてしまった農産物は本来「公富」的な性質、すなわち十分に「使用価値」を帯びており、本来私たち人間の欲求の充足を満たしてくれるものであるはずです。

しかし、それでは、希少性がないため「私財」を作ることにつながらないので、希少性を生み出すためだけに廃棄を決定していると理解できます。

しかも、それを決定しているのは生産者である農家ではなく、彼らが生産した「商品」の流通を独占している流通業者(そのほとんどは農協であり、生産に関わるコストを負担しているのは彼らではなく農家なので廃棄することで腹は痛まない)です。

当然にして損失を被るのは、生産者である農家であり、高い価格を押し付けられる消費者である私たちということになります。

資本主義の本質の矛盾がよく理解できる事例だと思います。

 

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