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王仁三郎の言霊論理力

2023年5月7日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

前々回、ホリエモンの「目に見えない資産(無形資産)」について取り上げた後、前回「目に見えない」つながりで「神棚とご先祖様を拝むこと」について考えるという、思いがけず宗教的な流れに行き着くこととなりました。

そして、そのことが10年ほど積読状態になっていた一冊の本を読み始めるきっかけとなりました。

それは、私が高校時代お世話になった東進衛星予備校の現国講師 出口汪先生が書かれた「王仁三郎の言霊論理力」です。

私たち世代までは、「現代国語」は受験勉強をしてもしなくても点数に変化は生じず、ほとんど向上は望めないのでその分、他の教科に時間を使ったほうがいいと当の現国の先生すら言うくらいで、今でいう「タイパ」の悪い教科だと考えられていました。

ところが、出口先生は、「現国の本質は論理だ」という今までの考えとは全く逆の考えを主張され、実際に受講生の点数を確実にそして短期間で点数を向上させることで、実は「現国」こそが受験科目の中で最も「タイパ」の良い教科だと実証したのです。

それによって「論理の神様」が彼の代名詞となるほどの人気講師になられました。

その「論理的思考」の塊のような出口先生が実は当時、授業の中でチラっチラっと「自分は『大本』の創始者のひ孫なのだ」というネタで雑談を展開することがあったのですが、彼の代名詞である「論理性」とその出自の「宗教性」のギャップからか、妙にしぶとく私の記憶に残っていました。

この本はそれから15年以上の時間が流れた2014年に出版され、そのタイミングで即購入したのですが、どうしてもそのギャップが原因でそこからまた10年近く積読状態となっていたというわけです。

今回、ようやく読み始めることができた本書から引用しながら、以下、「大本」とそれを共同で創始した「聖師」出口王仁三郎と彼の義母である「開祖」出口なおの二人の教祖について書いてみたいと思います。

「出口なお(1836-1918)は現在の京都府福知山市に大工の長女として生まれた。1892年に艮(うしとら)の金神(こんじん)という神がかかったことで『大本』を開き、艮の金神の言葉(お筆先)をもとに『立て替え・立て直し』と呼ばれる独自の終末観を唱えた。王仁三郎は1871年に現在の京都府亀岡市に小作農の子として生まれ、幼名を上田喜三郎といい、小さなころから神童・八ツ耳と言われるほど特別な霊能力を持ちながらも家が貧しかったために小学校を中退し、農業の傍らラムネ製造や牛飼いなどの仕事をして一家を支えた。1898年に郷里の高熊山で1週間、神秘体験をし、その年に出口なおと出会い、1900年、なおの末娘の澄(すみ)と結婚。なおとともに大本の教えを説きながら組織としての基礎固めをする。」

出口王仁三郎の論理に基づく影響力は非常に大きく、現在日本における有力な新宗教の多くが「大本」で学んだ者たちによって創始されています。

例えば、谷口雅春は成長の家の開祖 、 岡田茂吉は熱海にあるMOA美術館で有名な世界救世教の開祖、そしてその世界救世教の有力信徒だった岡田良一は世界真光文明教団の開祖となっています。

そもそも、この大本の論理力の根幹には「万教同根」の考えがあり、王仁三郎はこれについて以下のように述べています。

「世界に存在するすべての宗教の根っこは同じ一つの神である。同じ神が時代や場所によって形を変えて地上に現れるのだ。その神は愛の神だから『神の愛』に立ち返り、お互いの垣根を取り外して手を取り合おう」

実際に、1925年には既存の宗教であるキリスト教、仏教、イスラム教、ラマ教、のみならず世界各地の新興宗教団体とも連携し、「世界宗教連合会」なるものを北京で立ち上げるという「論理力」だけでなく「行動力」も伴った人だったようです。

私は、自著「富士山メソッド」の中で「日本語というマイナー言語を持つ母国語に持つ日本人は損か?」というコラムに以下のように書いたことがあります。

「どちらの宗教が正しいかをめぐって争いをし、相手を強制的に改宗させることは、言ってみれば英語と日本語のどちらが正しい言葉なのかを争うのと同じではないかと思うのです。日本人は『人知を超えた存在』すなわち科学など人間の能力では説明のつかない事象を説明するためのコミュニケーションツールとして、宗教を本質的に理解しながら上手に付き合っている国民だと言えるのではないでしょうか。」

上記の王仁三郎の「万教同根」の考えは、私がなんとなく感じていた「宗教」と言われるもののあるべき形(そもそも一つの対象を絶対視する宗教は本来の宗教でないと考えていた)を見事に言い当てる「論理力」の賜物ではないかと感じました。

また、彼はその「論理力」の源である「言葉」そのものも重要視しており、世界中の人々が国境も言語も超えて「一つの言葉」でコミュニケーションをとることが必要だと考えていました。

現在は当時と比べれば、そのことが「英語」によって実現しつつあるような状況ですが、しかしこれはある意味「アンフェア」な状況であり、王仁三郎の考える「一つの言葉」とは言えないと思います。

その点、王仁三郎は、まったくの「フェア」なコミュニケーションツールとして、かつてこのブログでもご紹介したどの国の言葉でもないまっさらな人工言語である「エスペラント語」を普及させるべく奮闘し、それが今でも「大本」の活動の一つとなっているようです。

このように、出口先生が本書を出版されたことで私としては「大本」の存在を冷静に認識できたわけですが、現代日本における(新興)宗教の受け止められ方を考えれば、その出版は先生をしてもとても勇気のいることだったと思います。

実際に、出口先生がこの本を書かれるまで、当時の受験生に対しても「大本」について詳しく述べることを避け、王仁三郎とご自身の関係という小ネタにとどめてきたわけですから、その困難さは容易に想像がつきます。

ただ、本書を読んだことで、「現国の神様」と言われた出口汪の「論理力」は文字通り神がかっていたのだということは分かり、当時のその出会いに対して心から感謝の念が湧いてきました。

 

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