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心の中の「野次馬」との付き合い方

2020年12月4日 CATEGORY - 代表ブログ

皆さん、こんにちは。

皆さんは自分自身の心の中に「野次馬」が潜んでいると自覚されていますか?

私は、おそらく平均以上に野次馬根性を持ってしまっていると自覚しています。

なぜなら、車を運転していて事故に遭遇すると、必ず車のスピードを落としてして渋滞の原因を作ってしまったり、近くで火事の広報があると現場を確認しに行く自分を見つけてしまうことも少なくないからです。

そんな自分に対し「やだな~」と思いつつも、その性質を完全に消すことができない自分を「恥ずかしい」と思っていましたが、前回ご紹介した「知ろうとすること。」のあとがきに糸井重里さんが自分の中の「野次馬」の存在を告白されていて、なんとなくホッとさせられました。

ただ、糸井さんはその告白だけで終わることなく、「野次馬」の性質と「野次馬」をコントロールするための方法についてその中で語っていたので、私もその方法を参考にしたいと思い、今回はその部分を引用し、その内容を肝に銘じたいと思いました。

まずは、「野次馬」の性質について。

「野次馬は、怖くて自分にも少し関わりがあって、普段の退屈な日々の中にはない様な珍しいことがあったら、それはもう大変豪華な禁断のお楽しみになるものです。そして、さらに、そういう多くの人たちがもっている薄暗い興味に合わせて、面白おかしい『ストーリー』を作ったり、煽り立てます。『怖くて面白い』という情報は商売にもなりますし、人の知らないことを知っているという人は珍重されたりもしますから。僕も様々な事件やら出来事に対して、無責任なワクワクやドキドキを感じている人間です。」

これを読んでいると、あたらめて自分自身の中に「野次馬」がいることを認めたくない気持ちがすごく大きくなってきますが、最後の糸井さんの「僕も」という告白とともに、次のような指摘によって少しだけ慰められました。

「人間という生き物が進化してくる過程で、心に『野次馬』を飼っているということは、きっと何かの役に立ってきたのだとこの頃思うようにはなりました。」

もし、この感情が人間という生き物の種としての生き残り策として全くマイナスなだけのものだったら、進化の過程で排除されてきているはずなのに、現実には残っているのですから、それなりの意味があり、また持っていること自体はだれも避けられないものなのだろうと。

しかし、この「野次馬」があまりにも暴走すると、次のようなマイナス面が全面に出てしまうのです。

「よく分からないけど、大変なことが起こった。そんなときには『事実』がどこにあるのか分からなくなってしまうのです。大変なことが起こったら、それがどういうことなのかという事実を確かめて、それに対して時には慎重に時には大胆に対処せねばならないわけです。しかし、野次馬によって『これまでにない恐怖』ばかりが強調されて広がって行ったら、事実を知る前にゆがんだ情報によって適切な行動がとれなくなったり、すでに被害を受けている人たちに不利益なことが起こったりしかねないわけです。」

では、そのような「野次馬」をコントロールするための方法とはどんなものか、糸井さん自らが2011年にツイートした内容を引用します。

「僕が、自分が参考にする意見としては、『よりスキャンダルでない方』を選びます。『より脅かしてない方』を選びます。『より正義を語らない方』を選びます。『より失礼ではない方』を選びます。そして、よ『よりユーモアのある方』を選びます。」

これらは基本的には、「野次馬」の性質の逆の性質をあらかじめ自分の中にポリシーとして持って置き、自分の中の「野次馬」の暴れだしそうなときに意識的に放出して、中和しようというものととらえられます。

ただ、この5つのうち、次の2点については補足が必要かもしれません。

まず、「より正義を語らない方」。

正義は日本の戦前と戦後を思い出せばよく分かる通り、あてにならないものです。そして、それを強調することで事実を歪めてしまう危険が高まるからです。正義であろうが不正義であろうが、「事実」が曲げられては困るからです。

そして、「よりユーモアのある方」。

糸井さんが、この項目の前に「そして、」とつけられているように、「事実」が何よりも大切なのはそうなのですが、「息苦しいのは嫌なんです」という主張からなのだそうです。

私も、自分の中の「野次馬」が暴れだしたときには、この5つで中和する努力をしてみます。

 

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