日本人と英語

「四技能」の誤解

2021年1月29日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「迷える英語好きたちへ」からテーマをいただいて書いこうと思いますが、第一回目のテーマは「四技能に関わる誤解」についてです。

「四技能」は大学入試共通試験への英語の民間試験導入を進める側の根拠として非常に強い説得力を持っています。

本書においてもその威力について以下のように書かれています。

「四技能の論理は日本人の心理を誠にうまく代弁したようで誰もが納得してしまいました。ややこしくなりそうな問題は避けて『四技能』と言い切ったのは見事な戦略でした。本音は『話す力』であったとしても、『スピーキング力は必要だ』などと言えば、『いや、読解力は必要だ』と反論が来る可能性があります。でも、『四技能』なら『読む』『聞く』『書く』『話す』がすべて入っていますから、誰も文句をつけようがありません。理念を語っても一般受けしないのですが、『英語派スキルだ』『要は使えるかどうかが問題なんだ』と考える多くの人にとって、『四技能』は全く抵抗感がありません。『ヨンギノー』という言葉は現場の英語教員も納得し、一般の人たちの心にもまっすぐに飛び込み、脳裏に刻み込まれ、あっという間に広がりました。」

つまり、「四技能」は民間試験導入を進める側の「錦の御旗」として機能したというわけです。

ですが、少し待ってください。

そもそも「四技能」は別に目新しいことではなく、外国語教育の本質が分かっている人間からすれば、当たり前のこととして以前から扱われてきました。

そのことを、本書では以下のようにまとめられています。

「人が言語を使う際には『聞く』『話す』、そしてそのあと『読む』『書く』が来ます。母語の獲得においては母親や周囲の人々が『話す』言葉を『聞いて』吸収しやがて『話す』ことを身に着けていきます。学校に入ると文字を『読む』ことを習い『書く』ことを勉強します。これが人間の母語の四技能です。ただし、外国語の場合には違いがあります。母語と同じように膨大な時間をかけてゆっくり『聞く』『話す』から入るのは効率が悪いので、内在している母語力を活用しつつ、『読む』こと土台に、『聞く』『書く』『話す』ことを学びます。この際、忘れてはならないのが、四技能をバラバラに切り離して勉強するのではなく、有機的に関連付けながら総合的な力をつけることです。その意味で『四技能』を隠れ蓑に(文法や語彙などを軽視して)『話す』ことだけを教えることではせいぜい初歩的な決まり文句を練習するだけで仕事につかえる英語までは到達できません。」

これは当たり前のことです。

私は前々から外国語学習における四技能の有機的なつながりについて指摘し続けてきました。

端的に言えば、『読む』ことができるようになったら『聞く』ことができるようになる、そして次に『書く』ことに進み、最後に『話す』ことができるようになるという流れです。

特に「書く」と「話す」の関係は分かりやすいと思います。

話す力とは(時間をかけて)書くことと同じことを瞬間的に口頭で行うことだからです。

そこには文法や単語に関する知識を身に着けた上で、英作文などある程度の時間をかけて文章をつくる力が先に付き、そのあとそれを瞬間的にやってのける力が話す力という当たり前のことです。

ですから、ランゲッジ・ヴィレッジでは、まず文法の力が受講生にあるかどうかを確認して、ある場合にはそのまま「国内留学」に、ない場合には「文法講座」を受講してから「国内留学」にという順序を作っているのです。

母語とは決定的に違うこの外国語学習における流れは決して外してはいけないことです。

ですから、今までの学校教育は、ある意味ではこの流れに沿うアプローチではありました。

(与えられた時間と資源の中では、英作文などある程度の時間をかけて文章をつくる力を実現できるかどうかに重点をおくべきでしたが、どちらかというと重箱の隅を突っつくような文法知識を重視してしまいました。これは、受験という最終目的に合わせて、正誤の判定の明瞭簡便さを優先したことによる弊害でしたが。)

しかしながら、今回の「四技能」重視への変更は、本来あるべき順序を無視して「話す」へ直接アプローチであるため、本書で厳しく指摘されるように、「『四技能』を隠れ蓑に」しているとしか言えないと思います。

 

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