田舎はいやらしい
2022年9月11日 CATEGORY - 代表ブログ
皆さん、こんにちは。
以前に「商店街はなぜ滅びるのか」という記事を書いて、商店街という地方を象徴するような存在が、規制や保護というものを望みすぎた結果、それらが自らに有利に働くどころか、まるで「麻薬」のように自らを滅ぼす結果につながってしまったという歴史を見ました。
ただそれは、少なくとも彼ら自身の「発展」を目指した結果がうまくいかずにそのような結果を導いてしまったという認識でいたのですが、実はそれがそうではなく、地方は自らが「発展する必要がない」と考え、敢えて「何もしない」ことからくる「衰退」を望んでいるのだという主張の書籍を見つけました。
それが「田舎はいやらしい」というタイトルからして衝撃的な一冊です。
著者の花房尚作氏は、埼玉のマンモス校から鹿児島の全校生徒が50名ほどしかいない過疎地の小学校に引っ越し、高校までその地での生活を「余儀なく」され、その後大都市福岡や米国ボストンでの生活を経て、関東に戻る中で様々な仕事に従事したという強者です。
読む前は私も著者の主張に「そんなことあるわけない」という批判的な姿勢だったのですが、不思議なことに、読みはじめてすぐに考えが変化し始めました。
まず、冒頭から彼の「田舎」の総括が次のように提示されます。
「田舎は生活から『裏』が消滅して『表』のみになった。周りから競争概念が消えて揉まれることがなく気持ちに安心感が生まれる。そのための山を駆け回るような年齢まではのびのびとした過疎地域で育つのも悪くないだろう。ただし、子供から大人になっていく中学生時代や大人としての準備を始める高校生時代では事情が変わり、都会で育った子供の方が自ら進んで多様な社会と結びつくため思考が柔らかく、コミュニケーション能力も高くなる。多様性や自主性を育みたいのであれば『裏』のある揉まれる環境で育つべきだろう。」
この感覚は実際に両方の生活をその順番で体験した者でないと根本的には分からないと思います。
私自身は、静岡県富士市(25万人程度)出身でまだ過疎地域と呼ぶには中途半端ではありますが、一応「地方」と呼ばれる地域で幼少期を過ごした後、東京および海外の大都市での生活を体感し、再び田舎に戻って生活をしており、実際にこの著者の冒頭の総括は非常にしっくりくる気がしました。
しかも、この総括にともなう「田舎あるある」があまりにもその通りだと膝を叩く実例が秀逸でした。
それは電話でのやり取りです。
以下、著者の指摘に私の感情も乗せながら要約します。
「地方ではかかってきた電話をとるとかなりの確率で『誰?』と聞かれます。(受けたこちらがではなくかけた方がです。念のため)その度に『それはこっちのセリフだろう』と言いたくなります。また名乗りもせず、『誰?』とも言わず、いきなり本題を話はじめるのですが、それが間違い電話だった場合にはいきなり何も誤りもせずに『ガチャッ』と切られます。」
なぜこうなるのか、私もずっと著者と同じようにその理由を考えてきましたが、以下の著者の洞察は実に的を射ています。
「それは間違えた恥ずかしさとどう対処しようか分からないもどかしさからくるのだろう。日々同じ人としか触れ合わないので面識のない人との会話になった時、どう対処したらよいかわからなくなるのだ。」
このように著者は、「田舎」を形作っている根本的な性質は「知っている人だけの社会」であることだと断言します。
つまり、全て知っている人との関係で生活が完結するため、「完全なるルーティーン」だけで済んでしまい、「チャレンジ」や「イレギュラー」といった現状と異なることへの対応能力が育たないのです。
その様な環境で育ちながらも、それに違和感を感じる者の多くは都会に出て戻ってこないため、その地域の保守性と閉鎖性が常に再生産されてしまうのです。
今流行りの「地方創生」が都会である中央の人たちのアイデアで「地方」を活性化させようとする試みである以上、豊かになるために都会の感覚で地域以外の人を取り込んだ新しい手法への適応努力をするよりも、現状維持を選択したいという意志を優先してしまうのです。
しかし、現状維持を目的としても決して現状維持できないことは、「商店街はなぜ滅びるのか」の記事で見た通り明らかです。
そのため、田舎の人が「要らない」と言ったからとしても、「地方創生」は不要だということにはなりません。
地方のこのような性質を理解した上での革新的なアイデアが必要だと思います。