日本人と英語

明治の文豪の多くは英語教師だった

2023年3月8日 CATEGORY - 日本人と英語

書籍紹介ブログにてご紹介した「英語と日本人」からテーマをいただいて書きたいと思いますが、第一回目のテーマは「明治の文豪と英語の関係」です。

本書の中で、「芥川龍之介、有島武郎、石川啄木、島崎藤村、坪内逍遥、夏目漱石のうち、英語教師の経験がある作家はだれでしょう?」というクイズが投げかけられています。

私は以前に「英語名人の時代」という記事を書きましたので、すかさず「夏目漱石」と心の中で自信満々に答えましたが、しかし正解は「全員」という意表を突くものでした。

本書には6名全員の詳細が書かれていたわけではありませんでしたが、私が調べられた限りの内容でそれぞれのプロフィールを「英語教師」としての経験を中心にまとめてみました。

◆ 芥川龍之介

1916年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。同年、海軍機関学校の英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新興宗教である「大本」に入信するために辞職したため、夏目漱石や市河三喜ら英文学者たちに推薦され、海軍機関学校の英語の嘱託教官として教鞭を執ることとなった。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。

◆ 有島武郎

農業学校卒業後に志願兵として1年間兵役についた後、1903年に渡米しハーバード大学に学び、1907年に帰国、札幌農学校の後身である東北帝国大学農科大学(のちの北海道帝国大学)にて英語講師として過ごしていたが、志賀直哉や武者小路実篤らと出会い同人誌「白樺」に参加する。札幌農学校時代、教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったという逸話がある。

◆ 石川啄木

盛岡中学時代にストライキを決行して英語教師らを追放し、英語を独学する「ユニオン会」を組織した。中学を中退後、生活のために無免許の代用教員として小学生に英語などを教えたが、学校改革のため児童のストライキを指導して失職、貧窮のうちに26歳で世を去った。

◆ 島崎藤村

13歳で英語を学び始め、明治学院を卒業した翌年の1892年に若干21歳で英国人作家アディスンの「The Vision of Mirza」の翻訳「人生に寄す」を発表した。この年の10月には明治女学校の英語教師となるが、教え子との恋愛問題で悩み、自責の念から辞職して各地を放浪する。その後、東北学院、小諸義塾、慶應義塾などで教えた。

◆ 坪内逍遥

1876年に東京開成学校に入学、在学中に改組・改名された東京大学文学部を卒業。同時に、当時創立2年目の東京専門学校(のちの早稲田大学)の講師、そして教授となり、同校で長年にわたって英語・英文学などを教える。1885年に評論「小説神髄」を発表。小説を芸術として発展させるために、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定する「心理的写実主義」を展開することで日本の近代文学の誕生に貢献。

◆ 夏目漱石

1893年に帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科を卒業後、松山で愛知県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務める。五高時代には寺田寅彦ら学生たちが漱石を盟主に俳句結社の「紫溟吟社」を興し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。1900年、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる。英国生活になじめず神経衰弱となり、報告書を白紙で送るなどしたことから急遽帰国を命じられる。帰国後、東京帝大の講師として、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任となるが学生には不評で批判の対象となり、本格的に神経衰弱を悪化させる。浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。その後「倫敦塔」「坊ちゃん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固める。1907年、一切の教職を辞して朝日新聞社に入社し、本格的に職業作家としての道を歩み始めるが、執筆途中はやはり神経衰弱や胃病に苦しめられた。

このように、多くの文豪が英語教師という職業を本業、もしくは副業としており、日本の近代文学に「英語」という言語が大きな影響を及ぼしていることが容易に想像できるようになりました。

夏目漱石の項目だけ、英語以外のプロフィールに字数を費やしたのは彼の「英語教師」としての側面だけ見てしまうと彼の功績が過少に評価されすぎてしまうのではないかと恐れたからです。(笑)

それにしても文豪夏目漱石の小説家への第一歩が神経衰弱の治療の一環でだったとは驚きでした。

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